― 152 ―うかがえる。また、昭和8年(1933)の『故ビゲロー氏遺愛品 浮世絵及四条派画幅入札』の目録には、ビゲローの遺愛品として、西山芳園の作品が最も多く、合作も含め22点、次いで森一鳳の作品が合作も含め15点出品されている。これらの出品数から、ビゲローが蒐集した芳園や一鳳の作品の総数は、William Sturgis Bigelow Collectionと合わせると、相当な数量であったことを推測させる。したがって、フェノロサのいう60点から70点のうちの寄託であった作品の一部が、これらの遺愛品であったとも考えられよう。以上のことからも、フェノロサやビゲローが西山芳園や森一鳳を高く評価していたことは間違いなく、それは、『Epochs of Chinese and Japanese art』における解説のみならず、ボストン美術館の所蔵作品数にも反映されているといってよい。まとめ明治時代に行われた円山・四条派に関する研究には限りがあり、その数も多くはない。その中でもフェノロサが祗園中村楼で行った講演では、応挙以降の画家の名を具体的にあげることはせず、円山・四条派自体に否定的な見解が述べられていた。しかしその一方で、『Epochs of Chinese and Japanese art』における見解は、大坂四条派への評価が高いものであったことを示している。その評価は、ボストン美術館のFenollosa-Weld CollectionやWilliam Sturgis Bigelow Collectionの所蔵作品に明らかに反映されており、大坂四条派を研究する上で、西山芳園や森一鳳などの画家が評価されるべき重要な画家であることが明らかになる。日本滞在時と帰国後で、なぜ円山・四条派に対する評価に違いが生じたのか。祗園中村楼での講演の際、フェノロサは芳園や一鳳の作品をまだ見ていなかったのかもしれない。あるいは、政府の役人であったフェノロサにとって、画家に変革を喚起させることを目的としたため、評価した画家を「四條家ハ注意ノ點アレ」や「四條家ノ中コレガ改良ヲ謀リシモノアル」と具体的な画家の名を伏せることで、より否定的な態度を見せようとしたのかもしれない。明確な答えは得られないが、日本滞在時に記したとされるフェノロサのメモ(注9)には、掲載予定の論文の標題として「芳園の生涯」、執筆者として芳園の息子である完瑛が記載されていることは、フェノロサが芳園の存在を公の場で評価しようとしていたことがうかがえる。このメモは試案であり、実際に論文が作成されることはなかったが、フェノロサが芳園を評価していた日本滞在時の唯一の資料である。以上、フェノロサが『Epochs of Chinese and Japanese art』において評価した画家は、
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