鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 158 ―と述べている。帝国日本の首都、東京の人々の目に映った台湾のイメージは、「火の地獄の様な蒸し暑い処」、「悪疫の流行地」、且つ「猛獣以上に恐ろしい生蕃が沢山居る」といったものであった(注4)。東京に生きる台湾人として、日々このような視線を浴びていた黄土水は、自分の故郷である台湾を如何に表現するか、どのように新しい「台湾」イメージを作るかという問題を最も切実に感じていたと言えるだろう。黄土水は帝展でどのような「台湾」のイメージを示していたのだろうか?1920年、彼は帝展に先住民を題材にした二点の作品を出品した。その内、「兇蕃の首狩」は落選したが、鼻笛を吹いている先住民の子供の姿を表現した「蕃童」は入選した(注5)。これらの作品には「原始社会」の野蛮性と純粋性という二つのイメージが表現されている。しかし、より重要なのは1923年の「水牛と牧童」〔図1〕に初めて現れる水牛の題材である。もともとその年の帝展に出品する予定であったこの作品は、何らかの理由で破損し失われてしまったと言うが、写真が残っており、頭を前に伸ばし、緊張感に溢れた姿勢をとる水牛と、その背に乗り、右手を高く上げて愉快そうな顔を見せる牧童が表現されていることがわかる。牛と牧童を組み合わせた彫刻作品の前例としては、東京美術学校で木彫、牙彫を教授した石川光明(1952−1913)の牙彫作品、「牧童」(1897年)〔図2〕があり(注6)、黄土水はこれを目にした可能性がある。石川の作品は牛の形態や毛並みなどは写実的だが、構図や牧童の姿は、日本や中国の伝統的な牧牛図を想起させるもので、前近代社会へのノスタルジアを呼び起こす。これに対し、黄土水の彫刻では、牧童と水牛という牧牛図のモチーフ(注7)がより立体的に表現されており、特に「巨獣」の姿で表された水牛は(注8)、日本人の鑑賞者にとってあまりに写実的にすぎたかもしれない。黄土水は、新聞の取材に答えて、水牛をより写実的に表現するため、台湾に戻り、本物の水牛を借りてそれと向かい合って製作したと言う。また、彫刻の迫真の出来にモデルの水牛が興奮し、彫られた牛と本物の牛がまるで決闘するかのように睨み合う状況があったとも述べている。この記事から黄土水が水牛の写実性を重視していたことがわかるだろう(注9)。また、彼の作品の水牛は、長く張った角を突き出し、口を閉ざした、まさに決闘に臨む姿で表されている。しかし、牧童の愉快そうな顔と身振りの中に、水牛に対する恐怖の感情は見出されない。水牛は、台湾を代表するイメージとして、当時の教科書、宣伝ポスター、絵葉書などの中にしばしば現れる(注10)。葉書の上に印刷された文章からは、当時の日本人の水牛に対する感覚がよく伝わってくる。

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