― 159 ―1924年、黄土水は再び水牛の題材を製作し、「郊外」〔図3〕と題した。この作品も帝展に入選している。ここでは牧童が白鷺に替わり、水牛は長く張った角を持ってはいるが、頭を下げた「柔順」な姿を呈している。その後も、黄土水は水牛の題材を続けて製作しているが、そこには、写実的手法で水牛を表現するのに適した立体的表現から、より絵画的な浮彫形式への移行が見られる。1926年、彼は浮彫の「南国の風情」を第一回聖徳太子奉讃展に出品し、1930年、同じく浮彫の「水牛群像」〔図4〕の石膏像を完成させた直後に亡くなった(注12)。この二点の作品において、人間と動物は自然風景の中に調和的に配置され、「美しい島」としての台湾が表現されている。黄土水の彫刻家としての生涯は僅か15年に過ぎないが、その間の「台湾的」主題に対する模索は、自己アイデンティティの形成過程の揺らぎを示している。「台湾に生れて」の文章全体の分析から、彼の「台湾」イメージは、植民者である日本人によって形成されたものであることがわかるが(注13)、その「台湾的」主題作品の製作にも、同様のことが指摘できる。例えば、日本人にとって、原住民と水牛はエキゾテイックな存在であり、黄土水が「台湾」らしい特徴を表現するのに、格好の題材であった。しかし、このような題材に含まれる、未開で野蛮なイメージは、彼に危機感をもたらした。彼の水牛シリーズは、最初は「獰猛」と「温和」という二つの特徴を表していたが、次第にその獰猛さを減少させ、温和な姿が強調されるようになる。また、自然風景と人間、動物を調和的に表現するのに適した浮彫形式に移行することで、「美しい島」としての台湾のイメージを確立した。「台湾的」主題を手がけたのは黄土水が最初ではないが、初めて「台湾」を自分のアイデンティティと結びつけたのは彼である(注14)。彼は生まれた地、台湾から離れ、東京の都市空間の中で、他者である日本人の視線にさらされながら、故郷への意「水牛はたしかに台湾ローカルカラーの一つである。その左右に長く張った恐ろしげな角と、その獰猛な面構とはどう見ても悧発な現代のものとは思はれない。それがまた馬鹿に柔順に水田を耕しているから面白い。汽車の窓から眺めたときには何ともいへぬ一種のエキゾテイックな情感が湧くを禁じ得ない。」(注11)日本人にとっては、「長く張った恐ろしげな角」と「獰猛な面構」を持つ水牛は、危険で原始的な存在であったが、台湾人にとっては、水牛は農作業には欠かせない存在であり、危険な猛獣であるとのイメージはなかった。水牛という題材は、それぞれ異なる文化を持つ日本人と台湾人の視線の下、「獰猛」と「柔順」という二つの正反対の特質を形成していたと言えよう。黄土水は「水牛と牧童」の作品の中で、この二つを共に表現しているのである。
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