注⑴ 「如意館」は清朝宮廷の中にあり、書画、彫刻の制作、工芸品を修復する芸術の中心地、即ち、⑶ 唐太宗曰:「人主何為而明,何為而暗?」。宰相魏徴曰:「兼聴則明、偏聴則暗。」司馬光著,『資⑻ 肖像画を描く為に、朝鮮高麗紙を常に郎世寧は用意していた。 矢沢利彦編訳『イエズス会士中国書簡集』第三巻・乾隆編,平凡社,1972年刊参照。― 7 ―⑵ 太監が宦官の官庁の長官を指すようになったのは明朝からである。清朝でも太監は設置されたが、実権は殆ど伴わなくなくなった。紫禁城の中には多くの宮女がいたので、紫禁城に入るにあたり、太監は男性生殖器を切らなければならなかった。⑷ 『内務府各作成活計清朝宮廷档案』,乾隆年間,北京第一歴史档案館蔵参照。 蘇立群著,『宮廷画師郎世寧』,中国作家出版社,2004年刊,213〜215頁参照。 矢沢利彦編訳,『イエズス会士中国書簡集』第一巻・第十書簡・康煕編,平凡社,1972年刊参照。⑸ 蘇立群著,『宮廷画師郎世寧』,中国作家出版社,2004年刊,213頁参照。 蘇立群著,『郎世寧傳』,中国文学出版社,1998年刊参照。 『乾隆時期宮廷肖像画』,美術研究出版,1999年刊参照。⑹ 孝賢純皇后は康熙51年(1712年)に生まれた。乾隆皇帝は皇后を連れて東巡し、3月11日に北⑺ 清朝宮廷の油絵作品は現在に至るまで、300年の歴史がある。一方、現在、中国人はこの名詞を「油画」という。発祥の地、ヨーロッパの油絵は5、600年の歴史を持っているが、中国でも清朝時代に油絵作品があることは、その歴史と文物に高い価値があるといえるだろう。家の焦秉貞、冷枚などもヨーロッパの絵画方法を取り入れ、凹凸と明暗の光と影の効果を使い、筆法はより纖細で写実的になった。その結果、宮廷において東西融合の絵画風格が形成され、「新体絵画」と呼ばれた。その題材には肖像画、宮廷生活画、史実画がある。全て皇帝の「文治武功」の目的の為に伝えられ利用された。郎世寧は高度な写実能力を持ち、人物の造形はしっかりしており、そしてそれを認めたのは皇帝であった。彼の絵画作品はほとんど宮廷、或は皇帝個人に収蔵されたので、民間にはあまり存在しなかった。彼は東西折衷の画風を完成させることに心を砕いた。雍正年間の創作は、西洋絵画の写実の面貌を表していたが、乾隆年間に入ると、郎世寧の絵画技法は更に熟達した。ヨーロッパの絵画技法は主として、人物の解剖を重視し、光と影の効果、及び三次元の立体感を求めている。彼は、そうした自らの技法に伝統的な中国工筆画の表現方法を取り入れ、且つ中国絵画の道具である筆・墨・顔料・絹等を使いこなした。彼は山水、花鳥、走獣、駿馬などの絵画にも堪能であった。乾隆皇帝という大きな支えもあり、彼の作品は、雍正時代と乾隆時代の宮廷絵画の主流となる。彼は宮廷画家の代表とされた。その東西合壁の形成は、郎世寧が中国宮廷画院に入る前の宮廷絵画と違い、又、同時代の文人絵画、及び民間絵画とも違う。清朝画院である。「啓祥殿」は「如意館」の別名である。治通鑑』,上海中華書局編纂,北宋,参照。京に戻る道中、皇后は突然の病気で亡くなる。享年37歳。
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