鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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2 陳澄波の故郷風景  ―「嘉義の町はづれ」、「街頭の夏気分」から「辨天池(嘉義公園)」へ― 160 ―識を育て、自分のアイデンティティと結びついた「台湾」を「発見」した。彼の故郷意識が形成されたのは、出生地から都市へ、植民地台湾から帝国日本へ移動する過程の中であることに注意すべきだろう。この二重構造の下に製作された黄土水の作品には、他者の目を通じて自分の姿を認識し、自分の存在を考え直しながらアイデンティティを再構築しようとした営為が見出され、「台湾的」特色を表現しつつ、新しい台湾の芸術を創造しようと決意した彼の屈折した心情が読み取れるのである。陳澄波は1895年に現在の嘉義市に生まれた。嘉義市は20世紀初頭、北回帰線の通る台湾西部の嘉南平原に建設された近代都市であり、豊かな自然を持つ。陳澄波は1924年に東京美術学校図画師範科に入学し、1926年に台湾人の洋画家としては初めて第7回帝展に入選した(注15)。この時の作品が「嘉義の町はづれ」である。陳澄波は新聞の取材で、この題材は「南国の故郷を紹介する考へで描きました」と述べ、嘉義の風景を故郷として描くことを明確に示している(注16)。「嘉義の町はづれ」は現在所蔵不明だが、白黒図版〔図5〕から、樹木、塀、家屋、電信柱を遠近法に基づいて道路の両側に配置する構図がわかる。向かって左側の家屋の中程に寺院の屋根が見えるが、当時の陳澄波の家はその後方にあった。画面の中央部から後方へ整備された道路がまっすぐ伸びているが、その前には大きな溝とそこにかかる橋が特徴的な、まだ自然のままの地面が残っている。盛り上がる土と広く深い溝、そこに架かる橋は画面に動きを与えるが、歩行者にとっては不便でじゃまな存在と言えよう。残念ながら写真からではこの作品の色彩はわからないが、陳澄波は同じ題材を1927年〔図6〕、28年にも製作しており、1927年の作品には「嘉義の町はづれ」の画面上半分が再び描かれていて、青い空と黄色い道路の対比が、南台湾の強い日差しを表現している。ここで描かれているのは近代文明の力によって変貌しつつある町の姿であり、都市の辺境である。画家の家は整備された近代世界に属するが、その目の前には、まだ昔のままの無秩序な自然が残っているのである。1926年の「嘉義の町はづれ」に見られる自然と文明の対比は(注17)、「南国」と「近代」の対比でもある。強い光線に照り映えた地面、草、木造の橋、寺院は南国の表象であり、塀、電信柱、まっすぐに伸びた道路は近代都市の表象である。前景左の笠をかぶる農人と右側の洋傘を持つ人物にもこの対比が読み取れる。もともと日本人

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