鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 161 ―の「南国」、台湾イメージには、恐ろしい自然に溢れた未開な土地、日差しが強く暑い熱帯などの要素は含まれるが、「近代性」は存在しなかった。しかし、陳澄波の故郷風景では、「南国」と「近代都市」という二つの異質な存在が、都市の辺境風景の中で結び付けられている点に注目したい。1927年陳澄波は再び故郷の風景を描いた「街頭の夏気分」〔図7〕によって帝展に入選した。画中には傘をさす母親と子どもの後姿が見えるが、この親子が向かっていく赤色の近代的建物が、1921年に落成された嘉義公会堂である(注18)。緻密な筆法で描かれる鬱蒼とした樹木は、南国の自然の旺盛な生命力を表現するが、その一方でロータリーを描く三つの輪が画面に安定感を与えており、自然は近代都市の理性的空間によって制御されていると言える。画面中心近くに垂直に立つ電信柱は、景物を避けることなく、樹木の茂みとロータリーを半分に分断し、木の高さを超え、画面の上端から外に伸びている。そのため近代文明の象徴としての電信柱の存在が鑑賞者に強く感じられるのである。また、画面が直線と曲線によって構成されること、特に左の樹木の茂みとその陰影が三角形に近い形で描かれることにも注目したい。この影の鋭い形は建築などの人工物の影のようにある意味不自然であり、画面に変化を与えるだけでなく、全ての自然物が既に都市の力によって制御されていることを語っているようである。「街道の夏気分」では、「嘉義の町はづれ」と同様に南国と近代が共に表現されているが、そこに拮抗構造は見られない。ここでは南国の自然が近代文明に制御され、人間と共に新しい都市空間の中で生存している。自分の故郷である嘉義を近代都市の姿で表現することは、台湾が既に近代性を獲得していることの証明であり、日本人との同時代性を強調する行為であると解釈できよう。1929年、東京美術学校研究科を卒業した陳澄波は、上海に赴き、新華芸術専科学校西洋科主任の職に就いた。1933年台湾に戻って定住するまで、彼は主に中国の風景を題材に製作しており、再び故郷の嘉義を描き始めるのは1933年頃と推測される(注19)。1937年に描かれた「辨天池(嘉義公園)(注20)」〔図8〕は、1911年に市街地の西に建設された嘉義公園の辨天池を描いたもので、1938年の台陽美術展覧会に出品された(注21)。画面全体を覆うような巨大な鳳凰木が中心に描かれ、池の右側には赤色の橋と灯篭が、左の木の茂みの間から、辨天堂の建物がのぞく(注22)。鳳凰木の樹形は傘のような半円形になっており、よく茂った葉の隙間から青空と白い雲が見え、触手のようにうねった枝が下に伸びている。左側の枝は水面に接触するかのようにさ

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