― 163 ―傘のような巨木の形とその生命感の表現は速水御舟の「名樹散椿」(1929年)と類似し、木の枝が水面近くまでうねりながら伸びる表現〔図11〕は中国や日本の花鳥図、明時代の呂紀の「四季花鳥図」〔図12〕や(注29)、江戸時代の伊藤若冲の「動植綵絵」中、「雪中鴛鴦図」の水景表現〔図13〕等にしばしば見られる。陳澄波の図版コレクションからは、彼が1926年に若冲の「動植綵絵」を実際に目にしていたことがわかる。さらに、彼の作品には濃厚な顔料を使いながら、体のリズムに合わせた書のような運筆〔図14〕や、黒色の顔料を使った墨のような線や擦筆表現がよく見られるが、このような表現もまた日本の南画や中国の水墨画から学んだものかもしれない。南画論における線やタッチは対象だけでなく、画家の人格を表すものである。このような手法で描かれた「辨天池」の鳳凰木は、「南国」という異国情緒を薄め、鑑賞者に樹木の持つ強い生命力と、画家自身の精神や創造力を伝えようとしたものではないだろうか。陳澄波は、伝統的な花鳥画の図式やモチーフ、及び身体のリズムを活かした書法的な線やタッチにより、彼の想像する「東洋」の気分を作り出したのである。では、故郷の観点から分析すれば、陳澄波の作品はどのように解読できるだろうか?自分が住む町の風景を描いた一連の作品は彼にとって一種の「自画像」であったとも言えるだろう。彼が故郷を題材にした作品の内、「嘉義の町はづれ」、「街頭の夏気分」等、1920年代の帝展出品作には、黄土水の作品と同じ傾向が指摘される。すなわち、彼らが帝都東京で製作した作品は故郷意識の形成と強く関わっており、彼らは共に日本人の視線の下に成立した「台湾」のイメージの中から、自分の存在感を脅かす要素を払拭することによって、自己のアイデンティティを再構築した。しかし、1933年から1947年まで陳澄波が製作し続けた嘉義を主題とする作品は、1920年代のそれとは異なる故郷意識を持つ。これらの作品は10年間に亘り東京と上海で活動していた彼が故郷の台湾に戻るという背景の中で生まれたものである。陳澄波は帰郷後、1934年の台陽美術協会の成立に参画し、美術を台湾に根ざすことに力を尽くした。台陽美術協会とは台湾人の芸術家が主要なメンバーとなり、台湾の文化を啓蒙するという目的で成立した美術団体である(注30)。「辨天池」は1938年の台陽美術協会の展覧会に陳列されたもので、この作品自体が美術の啓蒙という文化的役割を担っていたと考えられる。したがって、1937年の「辨天池」に表れた故郷の表象はさらに複雑な形になる。画面の中軸に位置する、正面を向いた台湾服の女性人物とハリゲンに注目したい。ハリゲンは当時、生蕃家鴨とも呼ばれ、台湾の農家でよく飼育されていた。この女性とハリゲンは「台湾」を表す記号として採用されたと解釈できるだろう。同様
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