― 171 ―納宝物「蓬莱文蒔絵袈裟箱」〔図2〕は保安2年(1121)に開眼供養された法隆寺聖霊院の聖徳太子像と同時期の製作とされ(注4)、厳島神社蔵「松喰鶴文蒔絵小唐櫃」は寿永2年(1183)銘が記されており、いずれも蒔絵によって松喰鶴文が表わされている。このうち「蓬莱文蒔絵袈裟箱」には蓋表に松喰鶴の散らし文が表わされ、蓋裏には大亀が山を背負って遊泳し、その山に楼閣が建ち、松樹が生え、上空に松枝を銜えた鶴が飛び交っている図様が表わされており、その松喰鶴が蓋表に及んでいることが確認できる。この意匠は『楚辞』「天門篇」の「鼇戴山抃、何以安之」という記事について王逸が注釈する「鼇大亀也、撃手曰抃、列仙伝曰、有巨霊之鼇、背負蓬莱之山而抃舞、戯滄海之中、独何以安之乎」という場景と推察され、松喰鶴文は蓬莱山を暗示しているものと理解される。松喰鶴の図様の形成については、シルクロード地域に分布する鳥が草花や綬帯を銜える咋鳥文様が唐経由で日本に伝来し、鶴が松枝を銜える図様に表現されるようになったと考えられている。日本における鶴の咋鳥文様としては、奈良時代の遺例として正倉院宝物「金銀平脱鏡」鏡背に含綬鶴の図様が平脱によって表わされ、西本願寺蔵「三十六人集」などの唐紙料紙に折枝唐草のなかで鶴が唐草を銜える図様が版型文様によって表わされる〔図3〕。これら鶴の銜える綬帯や唐草が松枝に転化した事情については、日本において親近感のある自然樹木として合理的解釈―この合理性は地域・民族・時代に応じて変化しうるであろう―を行なったものであり、所謂リーグルの主張する芸術意志に通じるものと考えられる。【立涌雲文】唐花草文様の歴史は地域・時期ともに広範囲に亘るが、有職文様における唐花草文様は唐・宋代美術との関係が深い。唐代の唐花草文様は蔓草を展延させる蔓草形式と、花葉を円形に集合させる団花形式に分類される。蔓草形式については奈良時代には葛形、平安時代には唐草という語で認識され、廷臣の袍文においては轡唐草文と輪無唐草文に大別されるに至った。また唐草文とは称されていないが、美術史的に唐草文と見做すべきものに立涌雲文がある。その図様はS字波状曲線を背反並置した空隙に雲や葉の要素を配するのを基本とする〔図4〕。その表現は一様ではないが、背反するS字唐草のあいだに中央分離帯をもつ図様が古様であり〔図5〕、この古様表現はグプタ朝美術の様式に連なる波状唐草文様が唐経由で日本に伝来したと考えられている〔図6〕(注5)。『後照殿院装束抄』には立涌雲文に「摂籙ノ時冬着之、或抄云、執柄袍文沸雲ハ、摂四海如雲、故用之」という意味のあったことを伝えている。すなわち立涌雲文は波状唐草文様を湧き立つ雲に見立てたものが、やがて名称に即した雲気風に表現されるようになったと考えられる。
元のページ ../index.html#181