鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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2.伝播奈良時代の濃密華麗な唐花文様―一般に宝相華文と称されている―は平安前期を経て平安後期になると、前代に比して簡潔典雅な図様に定型化する動向が認められる。定型化した唐花文様は天喜元年(1053)に建立された平等院鳳凰堂や天治元年(1124)に上棟された中尊寺金色堂などの建築装飾をはじめとする同時期の工芸意匠に散見される。その図様は六弁花から蔓茎を延ばし、側面形の三弁花や蕾に葉を交える姿態を基本として、これを面状や帯状に構成したり、自然花樹文様のように折枝形式にして散布する表現がある。これら唐花文様や折枝文様は平安後期の和様化文様のひとつと見做され、日本特有の展開として理解されたこともあった。しかしながら近年の中国考古学の成果、特に宋代や遼代の美術工芸には、これらと共通する図様が散見されるようになってきた〔図8〕。特に折枝文様については宋代になって散見されるようになる現象が指摘されている(注7)。この折枝文様について、『源氏物語』「玉鬘」には「梅の折枝、蝶鳥飛びちがひ、唐めきたる白き浮文に、濃きがつややかなる具して、明石の御かたに」として、折枝梅花文と蝶鳥文を散らした意匠を中国風と認識していた記事もある。また、京都清涼寺本尊の釈迦如来立像は入宋僧奝然が寛和2年(986)に請来したとされ、その像内納入品である裂類のうち「緑地向鳳凰文錦」には両翼を広げた鳳凰が首を下方右向きに曲げた半円形構図の姿態で表現され、その鳳凰を向い合わせに配置する円形文様を主文とし、十字形唐花文を副文とする意匠が確認される。この宋代裂の向鳥円形文様は広島厳島神社古神宝のひとつ錦半臂雛形に表わされる文様と酷似するとともに〔図9〕、遼代裂のなかにも確認され〔図10〕、ここに平安後期・宋代・遼代の工芸意匠における共通項が指摘できる。これらの事例― 172 ―【浮線綾文】浮線綾文の図様は円形の中央に×字花文を置き、その上下左右に側面唐花文の上半部を配し、各唐花文のあいだに四弁花文の半部を配するのを基本とする団花形式唐花草文様である〔図7〕。浮線綾とは平安末期までは浮織綾を称していたが、後には特定の唐花円文を称するようになった。『明月記』寛喜元年(1229)十一月十六日條に「皆悉蒔三浮線綾丸甚以美麗」という蒔絵で浮線綾文を表わした記録は、漆器における浮線綾文の初期例とされている(注6)。また『後照念院殿装束抄』には浮線綾文の図を載せて「浮線テウ」と注記しているのは浮線綾文の別名である臥蝶文のことである。これは円形文様の四方に蝶を臥せた意味の文様名であるが、実際は唐花文の要素を蝶に見立てたもので、その文様名も音通によって転訛したものと考えられる。

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