鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 175 ―政・関白に就任すると立涌雲文を用い、これを辞任して太閤となると雲鶴文を用いる例があった。その図様は瑞雲が漂う空中を群鶴が両翼を広げて飛翔するのを基本とする〔図17〕。これは唐・長慶5年(825)に舎利荘厳のために用意された江蘇省鎮江市の甘露寺鉄塔から出土した「雲鶴迦陵頻伽文舎利容器」などに表わされるような雲気風唐草と鶴の組み合わせ文様について〔図18〕、唐草を雲に合理的解釈して展開したものと考えられ、宋をはじめ遼や高麗の工芸意匠にも表わされる東アジア一帯に及んだ図様である〔図19〕。有職文様においては、皇族の袍文には鳥文様、廷臣の袍文には唐草などの植物文様を用いる傾向が認められるが、関白を辞して太閤に就くと雲鶴文を用いる。ここに皇族は鳥類文様を用い、廷臣は唐草文様を用い、親王と太閤が鳥文様のひとつである雲鶴文を用い、廷臣の上級者である摂政・関白は唐草が転化展開した立涌雲文を用いる段階的構図が示され、太閤の雲鶴文の要素は皇族の鳥類文様と廷臣の唐草文様の融合的位置付けにある構図が理解される。このような構図は順当に構築されたものでなくとも、結果的に社会構造に合致するように整備された点が注意される。【藤円文】藤円文の図様は円文の中央に四弁花文を置き、斜四方向に蔓茎を絡ませながら左右に広がる藤花文を配するのを基本とする〔図20・21〕。『後照念院殿装束抄』には表袴文の藤円文の図様を伝えており、それを観察すると、宋代や遼代の工芸意匠の団花形式唐花草文様が様式展開したものと考えられる〔図22・23〕。すなわち藤円文とは、唐花円文の葉の要素を藤に見立てた文様名であり、後には図様自体が名称に相似しようと展開した形跡も認められる。『桃華蘂葉』に「堅文の藤の丸を着す〔当家(一条家)藤丸は二ツわなの文也〕」とあるわな44とは蔓茎の捩れのことである。これは図様的には蔓茎の捩れ具合の相違に過ぎないとしても、実際的な社会生活において有職文様を適用するうえでは、このような点によって家流を表象することが理解される。結語従来、有職文様の基本的図様の形成については、奈良時代に伝わった唐代美術が平安後期に至って日本特有の展開を遂げるという日本美術史における和様化の論旨に従う傾向があった。しかしながら近年、平安後期美術のうちに併行期の宋代や遼代の美術の要素が検出されるにつれて、和様化という美術史的現象については従来的な意味では理解し難くなってきている。平安後期の美術史的現象については、併行期の東アジア―五代・宋・遼・金・西夏・高麗など―における各地域や各民族に共通する

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