鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 181 ―⑰交差する満洲イメージの検証―満洲国における民芸運動を中心に―研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程  崔   在 爀はじめに―問題の所在と先行研究戦時下の民芸運動の動向、そして満洲国における民芸運動は、これまで様々な視点から研究されてきた。まず民芸運動を植民地主義的な運動として把握した研究として、長田謙一氏は、この運動が時代の逆説の中に置かれ、「大東亜共栄圏の構想を美的領域において推進する実践を支えること」になったと述べ、これを示すのが日本民芸協会の満洲への積極的関与であったと批判している(注3)。これに対して、中見真理氏は、「民芸の分野に限っては、柳もアジアの「盟主」としての日本を認めながらも、戦時下の柳が大東亜共栄圏に完全に取り込まれてしまうことを免れた」という評価を行っている。つまり、柳は「複合の美」の観点を堅持し、中国、朝鮮、台湾などのそれぞれの独自性を強調しながら、中国・満洲国における民芸運動には消極的であり、またその活動を奨励する文章も一切書いていない(注4)。他方、満洲におけ1932年、中国の東北地方に「満洲国」(以下、括弧省略)が建国されたことは、日本の対東アジア支配政策が「帝国的支配システム(植民地)」から「帝国支配下の主権国家システム(傀儡国)」へと展開したことを意味する。 近年、満洲国研究の動向は、日本の侵略過程、支配様相を解明した「日本帝国主義論」から「日本帝国」論へと転換されている(注1)。これは、帝国と植民地の関係を支配・被支配という単純かつ一方的な流れだけではなく、交差する関係性の中で捉え検討しようとする視点である。また、これは、植民地支配という異文化との接触(あるいは他者との出会い)が、帝国にいかなる変容を促すものとなったかという問いとも通じる。例えば満洲国は、大東亜共栄圏構想と連動しながら、日本自身のアイデンティティ形成にも影響を与えた。「王道楽土」や「五族協和」という建国理念が、現実と乖離した単なるスローガンに過ぎなかったことは明白である。だが、こうした理想に共鳴しながら満洲国に居住した人々、あるいは自らのユートピア的な企画を実現する場所として満洲国を受け入れた人々も少なくなかった。美術史や視覚文化の領域にも、美術家たちの「満洲体験」が、彼らの意識や造形にいかなる影響を及ぼしたかについて研究を進める必要があると思われる(注2)。本稿では、こうした観点の延長線上で、民芸運動と満洲との関わり、特に1942年8月から9月にかけて行われた満洲民芸調査団の活動を取り上げる。

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