鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 182 ―る民芸活動の内容をより本格的に扱ったのは、竹中均氏や戦暁梅氏の研究である。竹中氏は、主に満洲調査団の紀行日記や本の言説分析を通して、民芸運動における満洲の担った社会的なイメージを明らかにした(注5)。また、戦氏は、これまで見落とされた「駐在者(鹿間時夫)」 と「訪問者(満洲民芸調査団)」との繋がりに注目し、満洲での民芸蒐集の実像を究明した(注6)。 本稿では、こうした先行研究の成果を踏まえながら、 柳、あるいは民芸運動の植民地主義、国策との繋がりの有無を確認することに留まらず、民芸運動が満洲を通して行った自己定位の様相を探っていく。特に濱田庄司らの陶芸家が満洲で行った陶磁指導や試作、調査団と満洲国中央博物館の民俗展示との接点を通じて、民芸は民具(民俗学)との差異をどのように設定したのかを検討してみたい。満洲の工芸への関心満洲民芸調査団の派遣を探る前に、満洲の工芸についての当時の認識について簡単に触れておこう。まず、1939年には、実在工芸美術会第4回展の特別陳列として、満鉄コレクションの大陸土俗工芸品214点が展示された〔図1〕。この団体の中心人物だった高村豊周は、「ここに見られる工芸の美は正にノーマルな美しさである。平凡で健康であり、大陸の生活から直接にじみ出た美しさである」と述べ(注7)、「用即美」を旗印として揚げた実在工芸美術会なりの認識が民芸の特徴とも通じていたのが窺える。後述するが、満洲民芸調査団の記録にも、 現地で彼らが重点を置いた蒐集品が鶏冠壷だったことを示している一話が確認できる。このように、当時、満洲美術を代表す1942年は、満洲国建国10周年に当たり、多彩な満洲関係の展覧会が開催された。日本民芸協会も4月、開拓民の民芸展(日本橋三越)を開き、また雑誌『民藝』5月号「満洲建国十周年慶祝開拓文化」特集号を発行した。国家レベルの展覧会としては、満洲国国宝展(東京帝室博物館、9月10日〜25日)が挙げられる。この展覧会は、満洲国を「古来有力の国(渤海、遼、金、清などの非漢族国家;筆者)の発祥の地」に誕生した国家として位置づけ、「隣邦の名品を借り受ける」という形式をとったことで、満洲国の自立性を宣伝する手段になった。満洲地域の転籍、染織、陶磁が公開されたが、特に高い関心を集めたのは、鶏冠壷と名づけられた、熱河省で出土された遼代の陶磁だった〔図2〕。鶏冠壷とは、遊牧民(契丹民族)が使ったもので、黄・緑・白釉中の1つを施すのが一般的だったので、素朴な形や色彩のため、「革袋の縦目をそのままに残してある詩的牧歌的民芸品である」(注8)という評価を受けた。

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