手■― 183 ―るイメージとしては、土俗的な性格の工芸、つまり民芸、民俗品が一般的に受け入れられたことがわかる。満洲民芸調査団の蒐集活動この調査団は、新京(現在の長春)、奉天(現在の瀋陽)、吉林、孫呉、黒河、承徳、ハルビン、チチハルなどを訪れ、開催満洲民芸館設立のための蒐集をし、活動の中間報告として、新京で満洲民芸展を開催した。収集の対象は、陶器類、柳条製品、刺繍、玩具、木家具、馬具、白系ロシア人のイコーナ(聖画像)などの少数民族の民俗品まで幅広かった。ところで前年、開拓民の民芸展を紹介した『民藝』(1942年5月号)の口絵〔図3〕では、陶磁器がなく、主に柳条製品、木製品などの民具類だったのに対して、満洲民芸調査の成果をまとめた口絵(1944年2月号)には、鶏冠壷をはじめ陶磁器が多数掲載された〔図4〕。つまり1943年の調査を通じて、これまであまり手に入れることができなかった満洲地域の陶磁器を収集することになったのであろう。その中でも調査収集に関わった関係者の言説によく言及されたものが、前述した鶏冠壷だった。鶏冠壷は、「疲れた頭もはっきりするほど美しい。満洲の国宝では、鶏冠壷を第一におきたい。こんどの蒐集でも、何とかして逸品を一つ入手したいものだ」(注10)、「一つ一つの壷に各々言葉があり、見て見飽くことなく、立去りがたいことであり」(注11)などの高い評価を受けた。ただ、その時点では既に博物館の国宝級の遺物として知られ、高価で偽物も多かったので、入手がかなり難しかった。こうした「歴史としての満洲民芸」ではなく、満洲国の人々の現在の日常生活に美の標準を提示したものは何だったのか。口絵のなかで目を引くのが、「満洲民芸品の一代表として、民芸美の法則がほとんど秘められていた」(注12)と評価された、興」の茶碗である〔図5〕。二番目の事業内容だ隆山の満洲陶磁会社で作られた「菜1943年8月、日本民芸協会は、満洲軽工業団(若素製薬株式会社が中心)の要請、協力によって、満洲民芸協会ならびに満洲民芸館の設立のための調査団を派遣した。「満洲民芸協会並民芸館設立 第一期事業計画案」によると、この事業の内容は、「満洲国の民芸品調査蒐集、同生産機構及一般の指導、同開拓地の指導」であった(注9)。会長の柳宗悦は「学校の都合で」不参加だったので、精神科医で美術評論家、そして『民藝』の編集者だった式場隆三郎が中心となり、濱田庄司、外村吉之介、上野訓冶、上田恒次、河井武一(河井寛次郎の甥)、そして北京に駐在しながら華北民芸運動を行っていた吉田璋也や村岡景夫がメンバーとして参加した。■■■
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