― 184 ―った「生産機構及一般の指導」という項目からわかるように、濱田庄司、上田恒次、河井武一は、 缸窯鎮、興隆山などの窯で新作陶器の指導と試作を行っていた。陶磁器の試作活動吉林近くの興隆山の窯場は、満洲陶磁会社がドイツ式に計画的に作ったもので、原土の粉砕、土練りなどの工程、機会轆轤の使用、窯の構造などが近代的に整備された一種の工場だった。だが、濱田庄司が「その中で不思議なことに「菜手」の絵付けだけが極立つて東洋風であり、模様としてあれ程伝統的な仕事が、全然縁のないやうな環境で描かれてゐるのが意外だつた」(注13)と述べたように、製品の意匠だった菜手文様が、調査団の注目を集めた〔図6〕。菜手は、染付文様として自由で速度感ある絵付けが特徴で、濱田の「唐きび」文様も連想させる。濱田は、この文様が自分が一番好きな李朝の染付を思わせるもので、現在出来る菜手の唯一のよい茶碗と皿だと評価している。本来中国の南部発祥のこの文様は、中国では手描きではなく、銅版の転写になったからだ。そこで濱田は、「陶器は満洲の方が北支より確りしている」といった吉田章也(北京の民芸運動の主導者)の言葉を引用しながら、興隆山の陶磁を中国本土に対した満洲(地方文化)の優秀性として位置づけていた。またこの濱田の文章には、「日本の東北地方が、民芸の宝庫」と同様に、中国の東北である満洲も民芸が強い」という対比の観点が内在していた。こうした眼差しは、濱田だけでなく、満洲、中国の経験を『満洲・北京民藝紀行』として出版した外村吉之介の文章にも度々確認できる。これは満洲における民芸運動が「漢族の工芸」と「満洲固有の工芸」という対立構図のなかで展開したことと軌を一つにした。言い換えれば、満洲で保存すべき伝統とは、漢民族の支配下(あるいは、漢民族化)で消滅する危機にあった満洲地域固有の文化、すなわち遊牧民族・原住民の文化を意味していた。したがって、民芸運動における「貴族的工芸」と「民衆的工芸(民芸)」という代表的な対立概念は、満洲では「漢族の工芸」と「満洲固有の工芸」として再設定されたと考えられる。前述した鶏冠壷についての高い評価もやはり、こうした脈絡から読み取れる。他の分野でも同様の言説が蔓延し、例えば建築史のフィールドで関野貞は「遼の造りました建築物は木造建築でのものでも頗る特色を持ったもので、支那本部に決して退けをとらない立派なものでありますから、遼の文化と云ふものは必ずしも宋の模倣ではなかったと云ふことがわかるのであります」(注14)と述べ、遼金時代
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