― 185 ―の建築の独立性を強調している。こうした視点は、中国(中原)と満蒙(満洲と蒙古)を分離を通じた時局便乗とも関係があると思われる。さて、調査団員が興隆山の陶器を高く評価した理由は、農民や苦力(中国人の下層労働者)が使う安価のもので、熟練による作業の早さだった。例えば外村吉之介は、『満洲・北京民藝紀行』で次のように述べている。「この若い人達の可憐な仕事の姿勢の中に美の法則が托されているのを打ち眺めて「工芸の道」を思った。安いから多く作る、多く作るから腕が上がる、腕が上がるから確かな美が冴える。この経済性(安価)と社会性(多)と技術性(腕)と審美性(確)の循環は重要である」(注15)。興隆山の陶磁器ではなかったが、『民藝』の掲載された満洲の沙鍋窯の踏査記にも、制作の早さや素朴な特徴を取り上げ、「一名十五分間焼なる俗称を与えられてゐる。仕事の速いこと、乱暴なこと、洵に驚嘆すべき窯で、民芸の雄、下手物の横綱とも謂ふべき不思議な窯である」(注16)という言及も見られる。このように興隆山の陶器は、自らが設定した民芸の概念にも合致するものだったと言えるだろう。一方、興隆山での試作・指導活動の中で注目したいのは、消費者の問題である。調査団の個人作家(濱田、上田、河井)が生産者(興隆山窯の職人)に技術の指導や製作方針に関する助言を与えるならば、その陶器を使う消費者は誰だったのか。濱田らの試作は、菜手文様の単純化、顔料の変更、釉の掛け合わせなどの技術的な側面だけでなく、新しい形の器の制作にも重点を置いた。既に「満人」(註;現地の中国系の人)向けの飯碗、取り皿、丼と、軍の食器が主に作られていたが、試作を通して、番茶碗、土瓶、付湯呑、蓋付飯茶碗、コーヒー茶碗など多様な食器を制作したのである。試作に参加した上田恒次も「和食器中最も重要な飯碗は現地製産の最も急用なもの」(注17)と述べたように、その中では、日本人向けの和食器、洋食器が多かったのだ〔図7、8〕。つまり、調査団員たちは、「伝統的な満人の日用陶器として存続させてほしい」(注18)と言いながらも、満洲の土へ護られた伝統の技法や文様を、自分たちの手伝いで生かして、「差当り開拓団のやうな満洲における生活の指導的な組織と絡んで、健康な生活を守り立てるのに絶好の機会」(注19)として把握したのである。これは、満洲民芸運動の三番目の目的だった「開拓地の指導」とも繋がっていた。「満洲民芸協会並民芸館設立 第一期事業計画案」には、「国民生活用具の優れたる伝統保存と創造的育成に努むると共に開拓民の衣食住用具の自給体制を確立せしむべく、之が指導を為し生活に即せる健全なる文化の建設に資せんとす」(注20)と述べられていた。陶磁試作をこの目標に適用してみれば、菜手文様の興隆山陶磁は保存すべき伝統とし
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