― 186 ―て、満洲民芸調査団はそれを創造的に育成する主体として設定された。要するに、満洲での民芸運動の主導者及び収容者は、あくまでも開拓民、つまり満洲在住の日本人だった。調査の前年からも、『民藝』(1943年4月)には、「満洲開拓科学研究所より」という題で「満洲にも民芸協会また満洲民芸館が出来ますとかほんとうに心より期待いたしそれのよき完成を祈ってやみません。私の念願といたしましてはこの人達に是非健在な民芸的雰囲気をその生活の中に加味したいと思ふ点でございます」といった文章が掲載され、満洲開拓民と民芸を結びつけようという雰囲気を作っていた。ところで、満洲開拓民の健康(健全、健在)な生活というのは、どのような意味を持っていたのか。1940年頃から柳宗悦は、美の標準として「健康」を説き始めた(注21)。もちろん柳は簡素、謙虚、尋常など言葉で健康な美を説明したが、これは戦争遂行のため国策に沿った保健運動と表面的に共進したものとしても見える。実際のところ、『民藝』誌の満洲国関係の記事には、確かに開拓民の生活、衛生を強調したものがよく登場している。しかしながら、満洲の民芸運動で興味深いのは、民具から民芸を区分する価値基準として、「健康」の言説が適用された点である。民芸運動(民芸品)と民俗学(民具)は、地方の民衆生活文化に重点をおいた共通点があったので、満洲国は両方ともに発見、保護すべき「地方」として注目を引いた場所だったと考えられる。特に民芸運動の満洲体験は、健康/不健康、美/醜、新/旧という対立概念を通じて自らのアイデンティティを鮮明にするための好機会だったとも言えるだろう。一方、健全な新国家の建設を標榜した満洲国にも、民芸運動の「健康と不健康、美醜」という芸術的価値概念は、道徳的価値判断に転用しやすかったことは、間違いなかった。民具との「差異づくり」、満洲国国立中央博物館との接点例えば洋画家にして民俗学者の染木煦は、1939年には中国や満洲を踏査し、『北満民具探訪手記』を出版した。染木は「序」で「民具の内、観賞に適する物を取捨選択して民芸品と称へ、近時、好事家の玩ぶところ、結局玩弄物となるに過ぎず。民具は然らず、其の物の美醜と新旧を問はず、又健康的なると不健康的なるとを訊ねず、凡そ生活に必需の物はすべてこれを民具とする」と書いている(注23)。1940年、柳宗悦は「民藝と民俗学の問題」と題した柳田國男との対談で、民芸を価値判断や取捨選択をともなう当為の学として位置づけ、両者の違いを明らかにした(注22)。こうした見解は民俗学側も同意したものだったようだ。
元のページ ../index.html#196