鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 187 ―この本は、民芸運動側にもかなり刺激になったと見える。満洲民芸調査団のメンバーだった岡村景夫は書評で、染木が価値判断を離れていたことを指摘しながら、次のように述べた。「民芸の価値判断の根拠は「健康な正常な生活」であり、それの正しい伝統、その生活を営むための用具と云ふ事がその規準である」。こう見れば、前述した陶磁器の蒐集、個人作家による制作指導・試作の活動も、民俗学とは差異をつくろうとした民芸運動の特徴だったと思われる。自給性を重視した民俗学(民具)は、一般的に、熟練の技術を必要とする陶磁器を研究の対象として扱わなかった。その一方で、「人々に美の標準を贈る」ことを自らの使命とした民芸にとっては、陶磁の試作は重要な課題だった。「都市生活者と地方の工人たちに新たな生活と創作に一つの標準を提示」(注24)しようとした民芸の目標は、都市生活者を「日本の開拓民」に代替しながら、満洲国でも無理なくつながっていたのである。そこで価値判断といった点からみると、満洲国でより有用だったものは、民具ではなく民芸ではなかっただろうか。健全な新国家、生産の建設を標榜した満洲国にも、民芸運動の「健康と不健康、美醜、新旧」という芸術的価値概念は、道徳的、実用的価値判断に転用しやすいことは間違いなかったからだ。ここで注目したいのが、満洲の民芸運動が満洲国国立中央博物館の副館長だった藤山一雄と持っていた接点である。1939年、官制施行した国立中央博物館新京本館は、動物、地理、鉱物、地質、物理の五部構成からなる自然科学系博物館であった。ここで藤山は、中国東北に先住する諸民族の伝統的な生活文化を展示しようとした。いわゆる「民俗博物館構想」は、民俗という言葉の使用とともに「満洲における民俗、此の国の文化に存する残存物を丹念に蒐集保存」して「体系化、科学的研究の客観的対象にすること」(注25)を明示していた。しかしながら藤山は民俗学自体には懐疑的な態度を見せながら、先住民族の生活様式に価値を付与し、それを生活の美として展示しようとした。こうした「生活芸術としての民俗展示」には、藤山が、俳人であり、満洲国の官展だった満洲国美術展覧会に出品するなど、芸術家としての素養を持っていたこととも関係があるかもしれない。だが、藤山の文章や言及には、民芸運動についての関心や共鳴を表した部分が少なくない。例えば、民俗博物館に関する座談会で「少数民族は、日本人や漢民族の家に比べたら見おとりがして一般的にみた場合には殆ど低級な、原始人である」という発言に、藤山は「柳氏等のやつて居られる民芸館では、各種のゲテ物を陳列してありますが、非常に美しいものです。ゲテ物必ずしも貧相でもないではないでせうか」と答えてい

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