鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 188 ―る(注26)。また著書の『新博物館態勢』(東方国民文庫第23編、1940年)第6章「日本民藝館」では「全く動かすことの出来ない美しさを如実に見出す。「民芸」にいそしまれる人達の幸福を羨むと共に、一段の努力と前途の発展を祈りたい。民芸館の展示方法については殆ど間然するところはない。」と高く評価した。満洲民芸調査団も、国立中央博物館の藤山一雄を訪ねたが、特に調査団のリーダー格だった式場隆三郎は「満洲記」第6回の紙面をほとんど藤山についての記述に割き、彼の「ある北満の農家」(『満洲民俗図録第一集』に所収、1940年)という一部をそのまま長く掲載していた。戦暁梅氏が先行研究で詳細に述べたように、『民藝』誌に満洲の民芸、民俗について寄稿しながら、調査団の旅を支援した鹿間一夫が国立中央博物館の学芸官だったことも、満洲民芸調査団と国立博物館の密接な関係を示している。また藤山は、五族(日、漢、満、朝、蒙)のみならず、満洲地域の少数民族の生活様式まで視野を広げ、自分なりの「民族協和」の実現案だったと言えるだろう。こうした民俗博物館が究極的に目指したのは、少数民族の民俗、生活様式を日本人移民者、すなわち開拓民が学習すべき模範として提示したことにあったのも、満洲での民芸運動と同様だったことを指摘しておきたい。おわりに以上見てきたように、民芸運動は自らの理念や理想を実現する場所として満洲に向き合って、蒐集、試作などの活動を行った。この過程で民芸は、民俗学では全く関心を置いていなかった「美醜、健康と不健康の価値判断」を明らかにし、民俗学、民具との境界をより明確にすることができたと言えるだろう。満洲国のスローガンだった「五族協和」は、東洋民族の連帯と交流を唱え、「トランス・ナショナリズム」の可能性を提示しながら、当時の日本人を魅了した。しかし「五族協和」は、日本を中心に統合するという「八紘一宇」の世界観を反映した「ウルトラ・ナショナリズム」の延長線上にあったとも解釈することができる。民芸運動もまた、満洲の多様な民族が持つ固有な民芸を尊重しながらも、それを創造的に生かす役割の中心に日本(指導者としての民芸運動家、受け手としての日本開拓民)をおくことで、二つの「超」国家主義を結ぼうとした一例として挙げられるだろう。本稿では満洲における民芸を中心として論を進めた関係上、1942年の満洲民芸調査団を紹介するに留まった。今後の課題として、民芸と満洲国のかかわりだけでなく、植民地間の関係性、つまり朝鮮、中国、台湾などでの民芸運動との比較を視野に入れ

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