鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
203/597

2 《バッコスとエーリゴネ》の図像伝統『変身物語』(巻6)によれば、機織りの名手アラクネはミネルウァと技を競った際に、神々の愛を主題としたタピスリーを織りあげた(注7)。そこには「バッコスがブドウに姿を変えてエーリゴネを欺く」場面があった。このように、オウィディウスのテクストのなかでは、ふたりの恋はアラクネのタピスリーに関するエクフラシスとしてごく簡潔に言及されている。― 193 ―スとオレイテュイア》、《エウロペの略奪》、《ウェヌスとウルカヌス》、《アポロンとクリュティエ》―は、1747年から織り始められ、翌年に1作目が完成した。全作品からなる完全なエディションは1751年に織りあがった。この連作の主題構成・制作順序の興味深い特徴は、《バッコスとエーリゴネ》や《アポロンとクリュティエ》など、オウィディウスに基づく過去のタピスリー連作に先行例をもたないいくつかの主題が、早い時期に優先的に織られている点にある。このふたつのタピスリーについていえば、1748−49年のあいだに織り出されていることから判断して、下絵の構想は1746−48年頃に検討されたと考えるのが自然であろう。連作〈神々の愛〉の最も重要な購買者は王室関連であった(注5)。1750−52年に9点すべて揃った連作を最初に購入したのは、ルイ15世の長女を妃とするパルマ公フェリペである。その後、ルイ15世はこの連作を9回にわたって購入している。《バッコスとエーリゴネ》は《アポロンとクリュティエ》と共に国王が最初に購入した6点組のセットに含まれている。さらに、ふたつの作品の最も重要な購買者が王室関連であることは、特筆に価する(注6)。国王はボーヴェ製作所の作品を購入することもあったが、本来、王室向けのタピスリーはゴブラン製作所で制作されるのが通常だった。このような制作状況を考慮するならば、〈神々の愛〉が例外的に国王から高く評価されていたことがわかる。《バッコスとエーリゴネ》が国王に好まれた理由としては、古くから支配者をバッコスになぞらえる君主称揚の伝統があることに加えて、このタピスリーが《アポロンとクリュティエ》と同様に、王室の同時代の状況に関連した特別な意味を紡ぎ出す作品であった可能性が考えられる。そこで、まずはこの主題の図像的な伝統について考察することから始めたい。絵画的図像としては、多くの場合エーリゴネはブドウを手にするか、それを見つめる姿で描かれる。ブーシェのエーリゴネも、その人物習作素描〔図2〕が示すように、ひと房のブドウを手にしている(注8)。しかしタピスリーにおいては、エーリゴネは、バッコスの従者に差し出された籠からひと房のブドウを選び取るという設定に組

元のページ  ../index.html#203

このブックを見る