鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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⑴16世紀における星座としてのエーリゴネ― 194 ―み込まれている〔図1−b〕。さらに、エーリゴネはバッカントたちに取り囲まれている点においても、画面構想の上で伝統的な図像表現とは大きく異なっている。エーリゴネの図像についてまとまった研究はこれまでなされていないため、『変身物語』の挿絵も含めて考察する必要がある。そこで、ブーシェの作品の特殊性を理解するために、16−18世紀前半のフランスにおけるエーリゴネ図像の変遷を見直すことにしたい。エーリゴネとバッコスの愛に関する典拠は『変身物語』であるが、エーリゴネはアポロドーロスの『神話集』をはじめとする古代の諸典拠において、悲劇的物語に登場する農夫イカリオスの娘として語られている(注9)。イカリオスはバッコスからもらった酒を隣人たちにふるまった。酔った隣人は毒を飲まされたと思い、イカリオスを殺害した。エーリゴネは父を捜し歩き、その死体を発見して自ら首をつり、死後、神の計らいによって黄道十二宮のひとつ乙女座になった。ルネサンスの時代には、星座となったエーリゴネを取りあげた文学・絵画作品が散見される(注10)。16世紀フランスのペトラルカ主義を代表する詩人ロンサールは『アストレに捧げるソネットとマドリガル』(1578)のなかで、星座エーリゴネによって象徴される意中の女性に恋焦がれる詩人の心情を詠いあげている(注11)。絵画や装飾美術の作例としては、バルダッサーレ・ペルッツィによるファルネジーナ荘のガラテアの間の天井画や(注12)、ジュリオ・ロマーノの下絵に基づき1574−75年頃フランドルで織られた〈グロテスクの月々〉の《8月》〔図3〕の星座図像がある(注13)。後者の作品では、縁取り下部中央部分のメダイヨンに抱擁しあうバッコスとエーリゴネが表わされている。この図像表現は、タピスリーに付された銘文(注14)によれば、オウィディウスを典拠としており、パノフスキーが指摘するように、バッコスがブドウではなく人の姿で表された特異な例となっている(注15)。このエーリゴネ図像は、〈グロテスクの月々〉を手本としてゴブラン製作所で織られた〈アラベスクの月々〉を介して、17世紀第4四半期にフランスにも知られていた(注16)。しかしこのタイプの図像表現は、後述するように17−18世紀前半に継承されることはなかった。⑵ 『変身物語』の版本挿絵と絵画伝統『変身物語』版本にエーリゴネが挿絵として取りあげられるのは、結論を先取りす

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