⒂Porumb, op. cit., p. 65.⒃拙稿、「ポスト・ビザンティン美術の《最後の審判》が表現する私審判思想 ―関所と「義人⑼Victor BRA˘TULESCU, Bisericile din Maramures,, Buletinul Comisiunii Monumentelor Istorice XXXIV,Bucures,ti, 1941, pp. 48−49, に銘文の書き起こしがある。⑿Bra˘tulescu, op. cit., p. 112.⒀Pop-Bratu, op. cit., p. 36.⒁銘文の解読にあたっては、ルーマニア国立アカデミー所属、G. オプレスク芸術史研究所研究員、Ecaterina BUCULEI氏およびConstantin CIOBANU氏の協力を賜った。報告者の取材写真で初めてこのイコンを見たという両氏の解説では、このイコンは教会堂壁画の制作された18世紀と同じ頃か、それより古い時代の作ではないか、とのことである。銘文がスラヴ語で書かれているのが要因のひとつである。ちなみにカリネシュティ・カイエニやイエウドの教会堂壁画における銘文は、キリル文字ではあるもののルーマニア語である。⒄Garidis, op. cit. は「炎の川蛇fleuve-serpent de Feu」と呼んでいる。― 212 ―⑽よその夫婦関係を壊したということ。⑾東方正教会で司祭は、修道士にならない場合は妻帯するのが原則。悪魔は2回も結婚したことを責めている。の死」モチーフの分析から―」、『民族藝術 第23号』、民族藝術学会、2007年、192−197頁。
元のページ ../index.html#222