1 元旦の学画対象 ―青年期の作品から―元旦(初名、季允)の父・麓谷(名本修、1729〜1809)は田安家に仕え、また漢詩人としても高名で、兄・文晁をはじめ姉の舜英(1772〜1832)や紅藍(1780〜?)も絵をよくしたといい(注1)、東隄(?〜1814)という書家も兄弟にいたようである(注2)。さらに、文晁の妻の幹々(1770〜1799)も絵に巧みであったし、姉・舜英が嫁いだ中田粲堂(1771〜1832)は漢詩人と、谷家親族は芸術一家であった。元旦も同様に画才に恵まれ、年長者である文晁をはじめ姉妹兄弟の大きな背中を見ながら、その才能を伸ばしていったことが想像される。先に述べたように元旦は文晁と15歳の年の差があり、たとえば文晁が田安家の奥詰見習として五人扶持を給せられた天明8年(1788)、元旦はわずか11歳、また文晁が松平定信の近習となった寛政4年(1792)の時点でも、まだ15歳であった。寛政年間(1789〜1801)を中心とした若い時期の文晁― 216 ―⑳島田元旦の青年期における谷文晁の影響研 究 者:鳥取県立博物館 学芸員 山 下 真由美はじめに江戸時代後期を代表する南画家であると同時に、西洋の遠近法を駆使した「公余探勝図巻」(東京国立博物館)なども制作し、日本絵画史上に偉大な功績を残した谷文晁(1763〜1840)。彼は、白河藩主で老中も務めた松平定信(1758〜1829)に仕え、当時よりその名声は頗る高く、渡辺崋山や亜欧堂田善など優れた多くの門人を輩出するなど江戸後期の画壇に与えた影響は計り知れない。そんな文晁には15歳年の離れた弟・元旦(1778〜1840)がおり、元旦もまた、兄・文晁のごく身近な場所で絵を学び、一画家として江戸を中心にその名を知られた人物であった。しかし弟というある種特殊な関係により、文晁の各門人の研究が進められる中、元旦が文晁の門人として認識されることは少なく、また24歳のときに鳥取藩江戸留守居役の島田家へ養子入りし、以後「島田元旦」として活動していることも加わって、文晁の研究において元旦の存在は看過されてきたように思われる。本稿では、特に文晁の強い影響が見られる元旦の青年期(十代から二十代)に着目し、様々な資料や作品から文晁の影響を探ろうとするものである。このことは、単に元旦の画業を考察する上で重要であるだけでなく、文晁の研究においても、弟・元旦との関わりから論じることで、従来の文晁像に新たな一面を加えることが可能となるのではないかと思われる。
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