― 217 ―の作品は「寛政文晁」と呼ばれ優品が多いことで知られるが、若き日の元旦は兄・文晁のこのような作品を日頃目にしながら青年時代を過ごしていたと思われる。文晁はまた「写山楼」という画塾を開き、多くの門弟を有しており、良き教育者でもあった。このような兄を持った元旦が、最初に兄・文晁を絵の師としたと想定することはごく自然であろう。実際、寛政6年、元旦17歳の冬に描いた「秋江独釣図」〔図1〕の画中には、「於写山楼席画」とあり、元旦が文晁の画塾に参加している様子がうかがえる。枯木に肘をついて釣り糸を垂らす中国人物が描かれた本作にみる面貌や、渇筆を用いた枯雅な味わいは、後の元旦の作風とは一線を画しており、北山寒巌(1767〜1801)の作風との類似も指摘できる。また「花鳥図」〔図2〕や「秋柯小禽図」〔図3〕のような速筆による枯淡な墨画作品は、後の元旦の花鳥画の特徴となる細密描写や濃彩を用いた装飾的な作風とは異なる文人画風となっており、作風の上からも文晁の影響が強い。そして、「東方朔八千歳福寿之図」(鳥取県立博物館蔵)〔図4〕は文化2年(1805)、元旦28歳の作で、文晁門人の佐竹永海(1803〜74)も同様の絵を描いているが、その元画は文晁の同題作〔図5〕(「東方朔図」)に求めることができるだろう。大きな仙桃を胸の前に掲げ右足を一歩踏み出しながら左方を振り返る仕草が共通するほか、画面を一際印象的にしている雲(あるいは気のようなもの)の表現も共通しており、文晁作品との強い影響関係が見て取れる。このような青年期の元旦の作品からは、元旦を文晁の門人の一人として捉えることができよう。また元旦は青年期を中心に「文啓」という印を使用しているが、文晁の弟子に「文」のつく画号を持つ者が多いことから、「文啓」という号は、元旦が文晁一門に連なることの証左ともなるかもしれない。一方、青年期の元旦の作品は、これら文晁の影響の強いものだけでなく、古画や中国画の写しと思しきものも見られる。「福禄寿三星図」(ボストン美術館蔵)〔図6〕は、「秋江独釣図」と同じ年の春に描かれたものであるが、絹本に色鮮やかに緻密かつ堅実に描かれ、中国画を手本としていると考えられるものである。また、享和2年(1802)に描かれた「山水人物花鳥虫獣図」は、19枚の色紙型や扇面、円形の紙に様々な画題が多様な技法で描かれたものであるが、そのうちの「飲馬図」〔図7〕は、文晁・寒巌らが縮写して刊行した『書画甲観』中の一図から引用したと覚しき作品である。『書画甲観』は寛政6年2月に文晁が中心となって谷中の感応寺で開いた鑑賞会での出品作(名家・知人の所蔵する古書画)を縮写し版本としたもので、その中の「元人 無款画 飲馬図」という「秋菊庵」が珍蔵する作品と本図が類似するため、この図
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