2 青年期における元旦の人的交流と動向次に、青年期の元旦の動向や人的交流と文晁との関連性を考察することとしたい。先にみた「秋江独釣図」の画面上部には、紀伊和歌山藩の儒官であった金谷玉川(1759〜99)の漢詩が賦されており、社交の場でもあった写山楼に17歳の元旦も連なり儒学者らと接している様子がうかがえる。本作からは、元旦が文晁のもとに集まる作品だけでなく、文晁の周囲の人々とも接する機会に恵まれ交流を持ったことを想像させるが、それはたとえば、文晁と北山寒巌・元旦の三人がそれぞれ描いた山水図に、― 218 ―を元に描かれたことがわかる。この年、元旦は大坂にいるため、後に『書画甲観』を見て、あるいは別に「秋菊庵」が蔵する「飲馬図」を見る機会を得て本作が制作されたと考えられ、元旦が文晁のもとに集まる中国画などに接しうる立場にあり、それらを積極的に学んでいる様子がうかがえる。また、同作品中の「狼図」〔図8〕に描かれた月に向かって吠える狼の姿は、その画題の珍しさや描き方から一見して西洋画からの影響を感じさせるが、文晁をはじめ多くの画家たちが手本としたヨンストンの『動物図譜』を紐解けば、その中のオオカミを描いたものとの類似が指摘できる。さらに18歳の時の作「富士三保清見寺図」〔図9〕は伝雪舟筆の同題作の写しで、若き元旦が幅広い作品を手本として学習していたことを知ることができる。本作の元図となった伝雪舟筆「富士三保清見寺図」は、当時から富士を描いた最も有名な古画のひとつで、熊本藩主細川家の所蔵であった(現在、永青文庫蔵)。江戸時代においてこの伝雪舟画の模写は数多く制作され(注3)、模写の模写も数多く生まれたことは想像に難くなく、本作もその可能性は否定できない。しかし、伝雪舟画とほぼ同寸の大幅の絹本に丁寧に描き込まれた本作から、若干18歳の若者が著名な古画を前にして真摯な態度で模写に臨んだことを想像することも許されるだろう(注4)。兄・文晁と細川家との関係、すなわち八代藩主・細川斉茲が「東海道勝景図巻」(永青文庫蔵)を文晁に制作させていることなどは、元旦の伝雪舟画を実見した可能性をさらに高めるかもしれない。これらの作品からは、青年期の元旦が文晁のもとに集まる中国画や古画、舶載された書物などに接しうる立場にあり、単に文晁の作品のみを学んでいるわけではなく、それらを積極的に学んでいる様子がうかがえる。この元旦の学画態度は、文晁の諸派兼学という一つの流派に固執せず様々な画風を学ぼうとする姿勢を受け継いでおり、元旦の青年期の作品は文晁の画塾・写山楼での学画内容を知る一つの手がかりを与えるものでもあるだろう。
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