鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 219 ―頼春水(1746〜1816)・尾藤二洲(1745〜1814)・林述斎(1768〜1841)がそれぞれ漢詩を賦したもの〔図10〕においても同様の状況が想定される。賛者の三人はともに儒学者であり、述斎は定信が実施した寛政の改革において昌平黌の幕府の直轄化に尽力し、春水・二洲の二人はともに昌平黌の教官となった人物であった。それぞれの活動や元旦の落款の書体から、寛政年間の作と知られ、元旦の十代から二十代前半に成ったものである。この「山水図」は、当時の幕政の中心部にいた人物と江戸の著名画家が競演した豪華な合作となっており、この中に元旦が加わっていることから、青年時代の元旦が身を置いていた世界が想像される。彼らを結び付けているのはおそらく、当時老中であった松平定信その人で、元旦が文晁とともに定信の周囲で活動していたことが推察されるのである。この元旦と定信との関係性は、森銑三氏が「谷文晁傳の研究」の中で紹介している定信の下屋敷で行われた琴棋書画の会について記された書簡(注5)が、より明確にしてくれるだろう。この会に書家として参加しているのは、柴野栗山(1736〜1807)と尾藤二洲ら4人で、画家では「谷文五郎」(文晁)と「谷末之允」(元旦)ら3人となっている。この会が開かれた年は不明であるが、各人の動向から、寛政3年から同11年の間と考えられ(注6)、定信が集めたごく限られたメンバーの中に元旦が選ばれ、栗山や二洲など定信のごく身近な儒学者とともに席を連ねていることがわかる。また、これより後であるが、定信が著した『花月日記』の文化11年11月4日に、隠居した定信を元旦が文晁とともに訪れている記事が見え、元旦と定信の継続的な関係を知ることもできる。元旦と定信の交流をみたとき、そこには必ず兄・文晁が介在しており、元旦は文晁に伴うかたちで定信やその周囲の文化人らと接する稀有な機会を持ち得たと考えられる。また、年若い元旦が一人の画家として臨席していることから、この時期の文晁にとって元旦は、単に身内の人間であるだけでなく、高弟の一人という認識もあったのではないかと考えられる。このことを踏まえた上で、次に元旦の青年期の動向として欠かすことのできない京坂遊歴について触れておきたい。元旦は寛政5年から同6年にかけて大坂の博物学者である木村蒹葭堂(1736〜1802)のもとを訪れている。『蒹葭堂日記』には、寛政5年の8月から同6年の4月までの間に計11回元旦の名が登場しており、少なくともこの一年弱の間は関西にいたことがわかるが、元旦は如何なる目的で関西を訪れているのだろうか。このことに関して従来、『鳥取藩史』(注7)で紹介された元旦の孫・嶋田真浄氏の談話が引き合いに出されることが多い(注8)。すなわち、寛政2年、13歳のとき、兄の文晁に怠惰を叱責された元旦は家を飛び出し京へ出て、円山応挙に師事し、応挙没後は沈南蘋の

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