― 220 ―画風を究め前後7年を経て江戸へ戻った、と。この説に従えば、元旦は13歳から同8年19歳の時まで京坂にいたことになるが、前掲の「秋江独釣図」は、寛政6年冬にはすでに江戸にいたことを示しており、さらに『蒹葭堂日記』に元旦が最後に登場する同年4月3日の記事には、それまでの記事にはない「谷子 暇乞行」との記述があるので、この頃関西を離れた可能性が高いと考えられる。また、上京を文晁への反発に因る自発的な家出と捉えるのは、蒹葭堂訪問の事実を鑑みるといささか強引にも感じられる。よって、その理由を推察するにあたり、蒹葭堂や応挙らと元旦との関係を今一度考えてみることとしたい。まず、現在のところ、関西での元旦の動向を確認できるのは『蒹葭堂日記』から判明する蒹葭堂宅への訪問のみとなっている。元旦はこの6年後に幕府の調査隊の一員として蝦夷に渡っているが、大塚和義氏はその論考(注9)の中で、このことと蒹葭堂訪問とに関連性を見出し、元旦が蝦夷地調査において「なにをどのように記録すべきかという点において、蒹葭堂の博物的見識とその収集において才能をみせた蒹葭堂の影響が少なくないものと思われる」としている。蒹葭堂は、多くの大名や天文学者らとも交流しており、その中には天明5年(1785)の幕府最初の蝦夷地探検に参加している最上徳内(1754〜1836)もいた。元旦の蝦夷行きは蒹葭堂訪問から6年後と先のことであるが、ロシア船の南下に大きな懸念を抱いていた定信は、寛政元年と同3〜4年にすでに幕臣を蝦夷に派遣しているほか、元旦関西滞在中の寛政5年には文晁を連れて伊豆・相模の海岸巡視を行い『公余探勝図巻』が制作されていることなどから、元旦が定信の意向を受けて蝦夷地に関する情報収集のため蒹葭堂を訪問した可能性は十分考えられるだろう。また、幕府が行った寛政11年の蝦夷地調査に元旦が加わっていること自体も、定信の推薦によるものと思われ、あるいは元旦は文晁の代替としての役割を担っているとも捉えられる。また著者は、元旦の関西遊歴に関して、定信が指揮した『集古十種』の編纂事業に元旦も関わっていた可能性もあるのではないかと考えている。『集古十種』は、全国各地で調査した古文化財1859点を85冊に収めた、壮大な規模の図録である。小林めぐみ氏の論考(注10)によると、古文化財の情報の収集には、定信自身が古物を手元に取り寄せて検分している場合や、定信が旅行途上で調査している場合、さらに臣下を各地へ派遣し調べている場合など、様々な手段が用いられている。特に臣下を調査旅行に派遣したものとしては、現在確認できるものとして7例が紹介されており、それは寛政4年から文化4年に至る16年間の長きにわたっている。さらに、残された調査記録に掲出された古文化財のうち『集古十種』に収められた資料と一致するのは約一
元のページ ../index.html#230