鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 221 ―割となっているようであり、長期的かつ多様な手段によって収集された膨大な情報を凝縮したものが、この『集古十種』であることがわかる。前章で触れた定信の琴棋書画の会に元旦と同席した栗山は、元旦が蝦夷地で写生したスケッチをまとめた図巻『東蝦夷紀行(蝦夷奇勝画稿)』(個人蔵)の巻頭に「眼界真趣」の四字を題するなど、元旦が交流を持ちえた人物であることがうかがえるが、この栗山は『集古十種』編纂のため屋代弘賢(1758〜1841)・住吉広行(1755〜1811)とともに寛政4年に山城・大和方面の寺社宝物を調査している(注11)。同8年には文晁もまた同じ目的で関西に訪れており、この流れの中に寛政5〜6年の元旦の京坂遊歴を置いてみると、現時点で元旦と『集古十種』との関係を十分に裏付ける資料を持ち合わせていないものの、元旦が定信の『集古十種』編纂事業に関係していることを想定することも可能ではないだろうか。文晁が寛政8年に西遊した際、やはり蒹葭堂を訪ねており、「式古堂書画彙考」24冊や「図絵宝鑑」(7月25日)、また「地理図」2巻や「海内奇観」(7月28日)などを観ている。さらに8月2日には「南蘋所持」の墨から「大清琉球夫子廟堂全碑」まで、同6日には西湖図各種と舶載された文物を中心に観覧しており(注12)、元旦も蒹葭堂が豊富に所持する古書画を調査していたのではないかと想像されるのである。また、『蒹葭堂日記』に元旦は11回登場するが、その際必ず元旦は、大坂の医師で画家の浜田希庵(杏堂)か、画家で篆刻家でもあった森川曹吾(竹窓)のどちらか(あるいは両方)に同伴するかたちで訪問している。一方、文晁が寛政8年に定信の意を受けて『集古十種』編纂のため関西に赴き蒹葭堂のもとを初めて訪れた際にも、やはり竹窓に連れられている。文晁は杏堂宅で中国画を観覧しているほか、竹窓・杏堂それぞれの肖像スケッチを残すなど、両者と親しく交わっている。このように、時期は前後するものの、文晁と深い交流をもった人物によって元旦も蒹葭堂に引き合わせてもらっていることから、文晁と元旦の関西遊歴の共通性が察せられるのである。次に応挙との関係であるが、文晁が関西に訪れた時、応挙はすでに没しているものの、呉春(1752〜1811)や円山応瑞(1766〜1829)とともに(恐らく彼らの仲介を得て)智恩院や妙法院の古器物を観覧しており、応瑞宅では南禅寺が蔵する牧渓筆「観音大士像」や「唐人画馬図」などの模写を観るなど、文晁と円山家との親しい交流が見受けられる。一方の元旦は、文化4年の応挙十三回忌に行われた展観に、他の応挙門弟や文晁らに交じって作品を出品していることから、元旦自身も寛政5〜6年の関西滞在中に円山家と何らかのつながりをもった可能性が考えられる。その影響を、元旦がアイヌの風俗を写し取った『蝦夷風俗図式』(注13)における人物の写実的な表

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