注⑴ 梅沢精一『日本南画史』(南陽堂本店、1919年)より。ただし管見の限り、紅藍の絵に寓目し⑵ 野村文紹の「写山楼の記」に記された谷氏系図では、麓谷の子は舜英・紅藍の娘二人と文晁と元旦の計四人のみが紹介されている。東隄については、「谷文晁傳の研究」(『森銑三著作集』第3巻、中央公論社、1971年、298頁)参照。⑷ 56.3×114.5cm(伝雪舟画は43.2×102.0cm)。元旦画は伝雪舟画より縦に大きく、上部の余白を⑺ 『鳥取藩史』第1巻、鳥取県、1949年― 222 ―⑶ 山下善也氏の論考(「江戸時代における伝雪舟筆《富士三保清見寺図》の受容と変容」、『細川コレクション・日本画の精華』静岡県立美術館、1992年)に紹介されただけでも16例が数えられている。⑸ 前掲注⑵「谷文晁傳の研究」301〜304頁⑹ 森氏はこの会を寛政5・9・10年のいずれかではないかと推測しているが、寛政5年は元旦が現などにみることも可能であろう(注14)。このような状況を鑑みると、元旦の京坂行きは、口伝にいう単なる兄への反発からの行動というよりも、蝦夷地調査にかかる下準備として定信からの使命を受けて旅立ったと考えた方が自然ではないだろうか。この時、元旦の関与を想定しうる『集古十種』編纂については、同行者の有無も含め、今後さらなる資料を調査し、その可能性を探っていきたいと考えている。おわりに以上のように青年期の元旦は、文晁の文人画風をよく学んだものや、中国画や古画の写しなど文晁のもとで実見しえたと考えられるものが多くあり、作風の点においても、また作風形成の土台となる学習範囲の点においても、兄・文晁の強い影響が看取されることを述べてきた。そして、この時期の元旦が文晁周辺の人々とも接する機会に恵まれ、さらに親族としてのつながり以上に文晁の高弟の一人として文晁の活動領域に属している様子を紹介した。また、文晁という存在を抜きには語れないにしろ、元旦が定信と近い立場におり、京坂遊歴をはじめとする青年期の元旦の動向に定信の意向が反映されている可能性を提示した。文晁の立場からみると、弟の元旦は兄弟であると同時に高弟の一人であり、また時には文晁の代替としての役目を与えられていたのではないだろうか。元旦の若き日の活躍には、文晁の、ひいては定信の信頼と期待を読み取ることもできよう。たことはない。広くとっている。画中に「乙卯仲冬臨雪舟画」の書き入れがある。大坂滞在中のため、寛政3・9・10年のいずれかであろう。
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