2.イギリス人ジャパノロジストの役割次に、以上に見てきたような和漢籍の情報をアンダーソンがどのように収集したか、特に彼の旧蔵書中に確認できなかった書籍の出どころを検討したい。ユーイン・ブラウン氏は、アンダーソン旧蔵書にサトウ及びウィリアム・G. アストン(1841−1911)から譲られたものが存在する事を既に指摘し、彼らは必要な書籍を日常的に交換していたと推察しているが(注12)、この2人に加えて、大英博物館の蔵書や、バジル・ホール・チェンバレン(1850−1935)、フレデリック・V. ディキンズ(1839−1915)等、日本滞在時に交友のあった同国人ジャパノロジスト達の蔵書を借用・参照した可能性が考えられる。そこで本研究では、1882年以前からの同館蔵書(BM)、サトウ(Satow)、アストン(Aston)、チェンバレン(Cham. と表記略す)、ディキンズ(Dickins)の蔵書目録(注13)についてそれぞれ照合作業を行い、アンダーソンの参考文献と同じ書名の記載があったものを〔別表〕各項に示した。― 229 ―に「須」、『(有象)列仙全伝』(2種あり)に「村上」、『絵本水滸伝』に「松宗」、『(増補諸宗)仏像図彙』(見返し袋とじ内)に「柏葉堂」、『和漢衆画苑』に「須市」と「鳥(カ)」〔図13〕がある。「須」の文字のあるものは須原屋系統の、「柏葉堂」は江戸通二丁目にあった野田七兵衛の仕入れ印と推測される(注11)。以上から、アンダーソンは〈日本美術史〉編纂にあたって、江戸時代の画史・画譜等を「参考文献」と捉え情報源とした事、参照した和漢籍の大部分を自ら所有し、翻訳して活用していた事、そこにはサトウを除いて特定の人物(特に日本人)からまとまって提供されたと見られるものはなく、むしろ古書としてバラバラに市井に再流通していたものを主に東京で買い集めた可能性が極めて高い事が指摘できる。『絵本直指宝』表紙に今も残る「五冊合本」「代三十五銭」と墨書された貼紙〔図14〕もまた、その証左といえよう。結果をまとめると、アンダーソン旧蔵書になかった10件のうち、『画人略年表』を除く9件がいずれかの蔵書目録に記載されており、同館と4人の蔵書でほぼ全ての参考文献をカバーできたことになる。例えばアンダーソンがUkiyo-yé riu-k¯o MS. Revisededition, 1844. と記した68件中唯一の写本(MS.=manuscript)に着目すると、これは現在ケンブリッジ大学図書館に所蔵される、弘化元年(1844)の識語のある斎藤月岑自筆写本『増補浮世絵類考』と考えられる。本書は1911年にアストンの遺産管財人から同館に寄贈されたアストン・コレクションのひとつである(注14)。また、彼らの蔵書にはアンダーソン旧蔵書と重複する書籍も多く(同一書を譲渡し
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