3.海峡を越えて―和本コレクターとしてのジャポニザンここまでイギリス人に限定して和漢籍情報提供の可能性を検討してきたが、実のところ1880年代において、江戸時代の画譜や画史を〈日本美術史〉の参考文献と捉える視点が、アンダーソン独自のものだったとは言えない。それらは当時既に欧米の日本美術愛好者達が共有する情報源だったことも視野に入れておくべきだろう。例えばクリストフ・マルケ氏は近年、ルイ・ゴンス(1846−1921)が1883年の著書『日本美術』L'Art japonaisで参照した主な資料を検証しているが(注16)、そこで列挙された和本にはアンダーソンの参考文献と共通するものが少なくない。報告者が共通項を試算したところ18件で、その数はアストンを上回っていた。― 230 ―たと見られる場合を含む)、参考文献和漢籍68件中、サトウは34件、アストンは14件、チェンバレンは12件、ディキンズは9件を所持していたことが確認できた(注15)。なお、大英博物館蔵書中には14件あり、このうち12件はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796−1866)旧蔵で、1868年7月22日に息子アレキサンダーから購入されたものである。ここでは試みに、フィリップ・ビュルティ(1830−1890)とテオドール・デュレ(1838−1927)の和本コレクションに着目しておきたい。デュレは1882年に論文「日本美術―日本の挿絵本、版本集:北斎」を著す際、アンダーソン及びディキンズから資料提供を受けた事が知られているが(注17)、彼自身もまた膨大な和本コレクションを蔵した。これらは1899年にフランス国立図書館が購入し、翌年には全581件を記した目録『日本の挿絵本および挿絵集』(注18)が出版された。また、ビュルティはゴンスと同じく一度も日本を訪れたことはなかったが、レオン・ド・ロニー(1837−1914)の元で日本語を学習し、1872年頃までに日本の絵本を100冊以上収集していた(注19)。彼とサトウの交友は1876年に始まっており、サトウの日記からは、むしろビュルティの方から和本の情報が提供されていた様子がうかがえる(注20)。1890年のビュルティ没後の売立目録には、757件の和本コレクションが記されている(注21)。彼らの目録から、アンダーソン参考文献と同じ書名の記載があったものを〔別表〕「Burty」「Duret」の項に示した。共通項は各22件と、ゴンスを上回っている。今後は、単に画譜類の使用を指摘するだけではなく、個々の収集の傾向等に踏み込んだ検討も必要だろう。アンダーソンの仕事は、ジャポニスムという大きな潮流の中で、とりわけ「クロス・チャンネル」の視点で捉えられるべきである(注22)。
元のページ ../index.html#240