鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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注⑴①遠藤望「大英博物館所蔵アンダーソン・コレクション調査報告」『ジャポネズリー研究学会会報』12、1992年、②鈴木廣之「研究ノート 一八七九年のW. アンダーソン「日本美術の歴史」」『美術研究』83、2004年、③彬子女王「ウィリアム・アンダーソン・コレクション再考」『比較日本学研究センター研究年報』4、お茶の水女子大学比較日本学研究センター、2008年、④同、「研究資料 標本から美術へ―十九世紀の日本美術品蒐集、特にアンダーソン・コレクションの意義について」『國華』1360、2009年、⑤加藤弘子「19世紀末の大英博物館における日本美術展示について―アンダーソン・コレクションによる「中国日本絵画展」」『東京藝術大学美術学部論叢』5、2009年― 231 ―むすびに本研究にあたって報告者が当初期待したのは、アンダーソンに日本美術全般の情報を提供した特定の日本人協力者を見つけることだった。しかし彼の旧蔵書にその痕跡を見出すことはなく、むしろ彼が同時代のジャパノロジストと情報を共有しながら、自ら画譜・絵手本類を収集し、画史や図彙を読み解き、混在する情報を〈日本美術史〉として貪欲に蓄積していった跡の方が明らかに強く残されていた。アンダーソンの著書をはじめ、1880年代に編まれたジャポニスムの日本美術概説書が次代の日本人による〈日本美術史〉の大系構築にどのような役割を果たしたかについては、これまで評価が留保されてきた。だが、本研究で見たように、その情報収集システムは看過すべきではない。むしろ、江戸と明治の美術史学のミッシング・リンクを埋める不可欠のピースとして位置づけるべきだろう。さらにそこから、次代の〈日本美術史〉で見捨てられる要素と理由を整理することが次の課題である。⑵前掲注⑴①②、及び鈴木廣之「誰が日本美術史をつくったのか?―明治初期における旅と収集と書き物―」、『比較日本学研究センター研究年報』4、お茶の水女子大学比較日本学研究センター、2008年。鈴木氏は注⑴②で仲介役として蜷川式胤の存在、後者で町田久成からサトウへの情報伝達の可能性に言及している。これらに反し彬子女王は注⑴④でサトウの名をあげるとともに「日本人の専門家から学んだものではなく、当時手に入る日本美術関係の書籍と、実際の美術蒐集を通して培われた」とする。⑶なお、同書本文にも各画家毎に絵本のリストが列挙されている。⑷Théodore Duret, l'Art japonais ― Les livres japonais illustres, Les albums imprimes; Hokousai, Gazettedes beaux-arts, 26, 1882, pp. 121−122. 及びLouis Gonse, L'Art japonais, tome 1, Paris : A. Quantin,1883, p. 152.⑸ユーイン・ブラウン「大英図書館の日本コレクションの歴史と特色」『秘蔵日本美術大観四大英図書館/アシュモリアン美術館/ヴィクトリア・アルバート美術館』講談社、1994年、14頁、及び大英図書館蔵Invoice to Edward George Laughton Anderson, 13th Dec 1900, DH30/2⑹参照した既刊目録、大英博物館所蔵品データベースは以下の通り① ロバート・K. ダグラス編、大森実解題『大英博物館所蔵和書目録』及び『大英博物館所蔵和

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