3点目は、「真景図帖」〔図3〕である。絹本着色、各30図を表裏に貼り付け、計602点目は、「名跡山水図帖」〔図2〕である。絹本着色による本画帖は、全国を網羅する形式の全96図からなり、「五畿七道図」と同様の型を利用し空間を構成している図も見受けられる。しかし、濃彩・緊密描写の「五畿七道図」とは違い、色彩も筆数も抑えた表現が特徴といえる。― 239 ―頼し、原在正(1778?〜1810)に「富士山図巻」(静岡県立美術館蔵)を描かせるなど、実景に深い関心を持っていた人物でもあった(注8)。「五畿七道図」は、絹本着色、山陰奇勝50図、山陽奇勝60図、南海奇勝56図、西海奇勝74図、五畿奇勝58図、東海奇勝62図、東山奇勝68図、北陸奇勝56図の計484図から成り、それぞれ天地2帖、合計16帖にまとめられている。単純に枚数の上で非常な大部であるのみならず、すべて謹直で細密な描線が用いられ、そこに濃厚な彩色と金泥線が多用されるなど、総じて綿密な作画態度によって制作されているこの画帖は、旭江の代表作というにふさわしい力作である。皆川淇園の序をはじめ、各帖の題字を村瀬栲亭や増山雪斎、朴徳源、程赤城、費晴湖、日野資枝、古賀精里、阿部正識、唐橋在熙、正親町三条公則といった当時の様々な文化人が担当していることも、本画帖の価値を更に高めることに繋がっている(注9)。②「名跡山水図帖」(個人蔵)題字を書いた人物は、箱書の「越智先生」と署名の「高洲」、そして印章「翼」「子亮」(白文方印)から、江戸後期の儒者である越智高洲(?〜1826)であると推測される。また、頼山陽(1780〜1832)とみられる後跋から、本画帖は「旭江山人」が描き、「浪華」の「長田丞之善」なる人物に贈られた作であることがわかる。越智高洲は頼山陽と同じく尾藤二洲(1745〜1813)に師事していたと目されていることから、本画帖は江戸後期の上方文化人が生んだ産物であると判断できる。また箱書で注目すべきは三井南家十代当主、三井高陽(1900〜83)の名がみられることである。高陽は切手蒐集や交通文化史の分野で著名な人物であるが、大正8年(1919)、19歳の時、祖父高弘が病死したことをきっかけに祖父の蒐集品整理を行っている(注10)。特に大正12年(1923)まで行われた整理(第一期と称される)は本格的であったようで、大正10年(1921)に箱や帖の手入れを行った旨の箱書の内容から、本画帖もその整理遺品の内の一作品であったと思われる。③ 「真景図帖」(府中市美術館蔵)
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