― 15 ―て、17世紀の風俗画家ヘーラルト・テル・ボルフが絵画生産の効率を上げるために、一定の手法を用いて制作していた可能性が指摘された(注20)。豪華な絹の衣装をまとう女性の描写を得意としたテル・ボルフは、自身の手による衣装の素描をキャンバスに転写し、同じタイプの衣装を身につけた人物を繰り返し描いたという。そうすることで、作品の質、労力、時間それぞれの理想的なバランスをはかり、最小限の労力で最大限の効果をあげようとしたのである。ウィレム・ファン・ミーリスがこの種の手法を用いたかは現時点では明らかでないが、その目的は同様であったと推測される。ファン・ミーリスは、同じ特徴を持つ女性像を絵画ジャンルを超えて用いることで、高い生産性を追求し、同時にこの特殊なタイプの優雅な女性像を彼の作品のトレードマークにすることに成功しているのである。こうした傾向はまた、18世紀初頭に活動した画家ニコラース・フェルコリェ、ピーテル・ファン・デル・ウェルフなどの作品にも認められる(注21)〔図3,13〕。しかしながら、テル・ボルフが17世紀、風俗画という一つのジャンルにおいて制作の効率を上げようとしたのに対し、なぜウィレム・ファン・ミーリスは半世紀の後、複数のジャンルの絵画制作の生産性を高めようとしたのだろうか。この問いに答えるためには、当時のコレクターが画家たちに何を求めていたかを考慮しなくてはならない。「災難の年」と呼ばれる1672年、フランス軍の侵攻による政治的打撃と経済不況を契機に、オランダの画家をめぐる状況は徐々に変化していく。一般市民は絵画の購入にあてる財力を失い、また17世紀第2、3四半世紀の間に制作された膨大な数の絵画は生産過剰を引き起こして新しい絵画作品の市場を落ち込ませた(注22)。そのため世紀末にかけて画家の人数も激減する。18世紀初頭になると絵画の購入者は社会の上層部を構成する富裕な市民に限られていき、画家が成功を収めるためには、この少数の芸術コレクターとの個人的な関係を良好に保ち、彼らの趣味を理解し、その要求に応えていくことが必要不可欠となった(注23)。ウィレム・ファン・ミーリスはそうした画家の典型であり、17世紀の高名な画家たちから継承した風俗画というジャンルに固執してその制作に携わり続ける一方、コレクターの様々な要求に応えるために、柔軟かつ多才であることを求められた。たとえば、パトロンの一人、ピーテル・デ・ラ・クールトの注文により、風俗画のみならず物語画、肖像画、風景画、静物画をも制作した。このコレクターの財産目録を手がかりにその作品数点〔図14〜16〕を同定してみると、一人の画家に向けられたコレクターの要望がどれほど多様なものであったか、そして画家がその要望にこたえるためにどれほど柔軟でなくてはならなかったかがうかがわれる(注24)。画家たちのこうしたパトロンへの依存は、自由な絵
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