注⑴『国立歴史民俗博物館資料図録三 紀州徳川家伝来雅楽器コレクション』国立歴史民俗博物館、― 242 ―畿七道図」系統の作品と、色彩も筆数も抑えた⑵「名跡山水図帖」系統と、大きく二つに便宜的に分類ができること、そして「真景図帖」(府中市美術館蔵)が、その両者の特徴を合わせ持つ作品であることを指摘した。また、筆者不明の「友島全景図巻」(大英博物館蔵)も旭江筆とする試案を述べ、旭江の有年記作品を新たに報告した。この点は、旭江の画業において重要であるのみならず、治宝の寛政年間における実景図制作への興味関心をより強化させるものとなろう。紀州藩主、徳川治宝の周辺における絵画制作の状況を見直すと、紀州の風景を、実際の景観を重視した構図で描いた桑山玉洲、「公余探勝図」を描いた後の谷文晁、そして実際熊野にたびたび足を運んで多数の那智図を残した野呂介石など、「土地を描く」画家が治宝に絵を献上している事実が浮かんでくる。それら作風のみならずバックグラウンドも異なる画家たちに共通する要素とは、「実際にその場所に足を運んで絵画化する」という作画姿勢であり、治宝は積極的にそのような画家に依頼していたとも考えられるのである。この治宝の絵画に対する態度を鑑みると、各地を遊歴しスケッチを重ね、実景図を蒐集していた浪華の豪商、和田隆侯にも見込まれ大作を描いた旭江は、治宝の意に充分適う画家であったと考えられよう。今後は申請者が継続している「五畿七道図」全図の詳細な分析と、同画帖と版本『山水奇観』との比較により、旭江の肉筆画帖、版本の制作姿勢をより詳細に検討し報告することに努めたい。「五畿七道図」はその量の多さもさることながら、青緑山水によって天候や時間の変化もなく日本の実景が描かれるという、興味深い作例である。また『山水奇観』は、後に歌川広重をはじめ様々な画家によって用いられ、一種の「型」として機能することとなった。この2作品を詳細に検討しどのような背景と意識によって旭江の実景図が制作されたのかを明確にすることで、当時の人々が求めていた実景図とはどのようなものであるか、それがいかに活用されていったのかを考えていきたい。⑵鶴岡明美「谷文晁筆『熊野舟行図巻』について―主題と表現形式に関する一考察」『お茶の水女子大学人文科学紀要』第48巻、1995年3月、内山淳一「山水癖の絵画―谷文晁筆「東北地方写生図」をめぐって―」『國華』第1355号、2008年9月⑶旭江については、近年以下の論考が発表され、伝記や画業が紹介されている。2004年、『三井美術文化史論集』第1号、2008年3月
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