鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
257/597

1 袴着における童直衣袴着は生まれて初めて袴を着ける儀式である。直衣が用いられたことがわかる早期のものは、長暦2年(1038)11月25日に行われた尊仁親王(5歳)の袴着で、「着御直衣不着指貫也」(『春記』)とある。『江談抄』二雑事には、1030年前後に行われたと考えられる藤原通房の袴着に際して、装束を調進した上東門院が、指貫が添えられなかったため不審がる人々に、後日「宜しき人は、着袴の時に、奴袴を着ざるなり。近代の人は案内を知らざるか。」と述べたと記されている。中宮や女院などの親■の貴所から袴着の装束を賜ることも知られるが(注1)、指貫を用いないという故実がすでにあったことが窺われる。以後、袴着には指貫を用いないことを指摘する記事が繰り返し認められる(注2)。― 247 ―㉓ 平安時代における童の直衣の実態―袴着・元服を中心に―研 究 者:財団法人畠山記念館 学芸員  伊 永 陽 子はじめに王朝文学には童の服装として直衣が数例みられ、高貴な童の代表的な服飾といえる。いくつか挙げると、「御衣は濃き綾の袿、袷の袴たすきがけにて、葡萄染の綺の直衣着て」(『宇津保物語』蔵開上)、「葡萄染の織物の直衣、濃き綾の打ちたる、紅梅の織物など着給へり。」(『枕草子』259段「積善寺供養」)、「紅梅の御衣の数多重なりたるに、同じ色の浮文の御直衣着給て」(『栄花物語』わかみづ)などとあり、皇族や貴族の童が葡萄染などの織物の直衣に濃色や紅梅などの衣を重ねた華やかな様子が窺われ、晴の場における童の直衣の一端が窺われる。一方で、童の直衣は袴着や元服の儀式に散見される。近年、生育儀礼研究が盛んに行われているが、服飾と儀礼が深く関係するにも拘らず、童の服飾について十分な検討がなされていないように思う。本研究では、平安時代を通して袴着と元服をみていくことで、童の直衣姿はどのようなものであったか、特性を捉えながら検討する。時代が下るが、安元2年(1176)3月10日に行われた藤原良経(8歳)の袴着には、次のようにある。 其次第先下袴、〈予結腰〉次褂、〈有假帯〉次直衣、〈造尻如主上御引直衣〉(『玉葉』)袴着では、指貫ではなく下袴に直衣を着することがわかる。また「天皇の引直衣の

元のページ  ../index.html#257

このブックを見る