2 元服における童直衣平安時代の元服の儀式では、冠者が童の装いで現れ、理髪・加冠を経て、大人の装束に改めるという装束改めがなされる。童の直衣が確認されるのは、長徳元年(995)2月17日の藤原兼隆の元服が管見でもっとも早い事例で、『小右記』に「着直衣等、― 248 ―如く」直衣の後ろ裾を整えて着付ける様子が述べられ、具体的な装いが窺われる。引直衣とは、平安時代に天皇の装いとしてみられるようになる服飾である(注3)。12世紀には天皇以外が着用することもあったようであるが(注4)、『禁秘抄』上「恒例毎日次第」には「着御引直衣〈自四月一日至九月晦日、夏也、自十月一日至三月晦日、冬也、〉生袴也」とあり、引直衣は裾長の生袴とともに天皇が日常的に着用するものであることを示している。また、引直衣は下直衣ともいい、通常の直衣と構造上の違いはないが、懐を作らず直衣と下衣の裾を重ねて後ろに引くように着装すると考えられている。ちなみに袴着の記事には引直衣の「はこえ」について詳述したものがあり(注5)、「はこえ」の口を裏にして袋を表に引き出す直衣の袍に反して、引直衣では束帯の袍と同じように内に籠めることがわかる。良経の「引直衣の如く尻を造る」とは、具体的にこのようなものであっただろう。次に下袴についてみていく。童の下袴は一般的に濃袴といわれるが、形状については『連阿口伝抄』「一直衣事。」に大人の下袴の寸法について「下袴事。長サ一尺廣サ一寸指貫ニマサルベシ。」とあり、これに準ずると下袴は指貫より丈が長く、幅も広いことが窺われる。このような裾長の下袴に引直衣という童の姿は、天皇の引直衣姿に通じると感じられたかもしれない。また、袴着の中には、儀式終了後に貴所に参ずる際、指貫を穿く事例がみられる(注6)。天皇の場合にも、庭上での蹴鞠などには特例として上直衣といって下袴と指貫を穿いて裾を上げたことが知られている。ともに袴の裾が長く地面に接するのが屋外では不都合なため、活動に適した指貫を用いたと考えられる。『中右記』長承3年(1134)8月22日条の大宮大夫息の袴着の記事には「直衣打衣〈蘇芳単衣〉濃袴、不具指貫、…令着直衣、如常人着、不着指貫時引直衣歟。」とあり、「指貫を着ざる時引直衣か」と、袴着での引直衣の着付けは指貫を穿かず下袴であることに関係すると思われる記述が見受けられる。下袴に引直衣という袴着における童の姿は、平安時代を通して3歳から遅くとも7歳頃までに行われたという袴着の挙式年齢に鑑みて(注7)、幼い童のみにみられる儀式での特殊な装いであったことが察せられるが、天皇の引直衣姿に重なる印象を与えるものであったと思われる。
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