鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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  着奥圓座、〈…抑先例、皆依為殿上童、着件装束、而今度無其儀、仍着直衣、(浮文亀甲織物指貫、非二重織物、)不結髪、故摂政殿元服之時如此、追彼例歟、但彼者密儀也、今度被逐度々嘉例、巳為廣儀、…〉― 250 ―はすでに服藤早苗氏が、10世紀中頃よりみられること、下級貴族においては主君から給うことを指摘されており、王権との主従関係を可視的にする象徴的な意味合いが存することを述べられている(注8)。しかし、直衣での元服に際して冠とともに直衣をしばしば賜ることは従来指摘されてこなかった。直衣束帯に用いたと考えられる天皇からの直衣は、直接的に天皇の存在を感じさせるものであり、童の装いを考えるうえで興味深い。なお、直衣束帯での元服事例がみられるのは⑤までで、その後は見出されない。このことは、前掲した『世俗浅深秘抄』の最後の一文から、直衣束帯の直衣指貫への移り変わりを想像させるのである。Ⅱ 童:直衣指貫 から 大人:位袍束帯 へ⑥藤原経仲 『小右記』寛仁3年(1019)10月19日条⑦藤原基通 『玉葉』嘉応2年(1170)4月23日条⑧藤原良通 『玉葉』承安5年(1175)3月7日条⑥では、藤原実資が送った装束が具体的に「先送直衣装束、〈絹直衣・赤練打綾褂一重・山吹色綾褂・紫織物指貫・三重袴〉」と記されている。実資が送った装束記録は他にもあり、華やかな色合いの衣や三重の袴などから童の装束ではないかと推測され(注9)、元服における童の直衣の早期の様相が窺われる貴重な事例といえる。⑦⑧は時期が近接しており、ともに摂関家の元服事例である。⑦には、次のようにある。摂関家では皆殿上童であるため童束帯で元服するが、基通は久安6年(1150)12月25日に行われた藤原基実の元服を「嘉例」として倣ったので、直衣指貫を着たとある。基実も殿上童ではなかったようであるが、⑧にも基実の元服例に倣った旨が同様に記されており(注10)、「次小童着座、〈着直衣、童指貫等、依不童殿上也、〉」という記述からは殿上童ではないために直衣指貫を用いたことがわかる。⑦の元服後には、叙爵、五位袍の束帯への装束改め、そして昇殿、禁色宣旨などの摂関家の元服における特徴が認められる。⑧には元服前日に「一家之例、元服夜被下禁色宣旨、即給御衣、着用之、代々如此」とあるし、基実元服にも昇殿・禁色のことがみられる。このように、元服後の待遇には殿上童と大きな違いはないように思われ

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