鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
261/597

― 251 ―る。それは密儀であった基実元服儀が「巳為廣儀」とあり、この頃には摂関家で広く行われる形式として定着していたためではないかと思われる。『雅亮装束抄』巻一には、次のようにある。 おとこになるあいだのこと。   …さうぞくはまづわらわさうぞくにてもなをしにてもきて。おとこになりて。かへりいりてそくたいして。元服後叙爵されて束帯に改める者の童の装いには、童束帯を指すであろう童装束と「直衣」が用いられるとあり、この「直衣」は直衣指貫と解釈できるのではないだろうか。そうすると、時間的に大きく隔たった⑥にこれを援用するのは難しいかもしれないが、⑦⑧については適合するのである。Ⅲ 童:直衣指貫 から 大人:直衣指貫 へ⑨藤原良経 『玉葉』治承3年(1179)4月17日条⑩藤原基教 『猪隈関白記』『不知記』建永元年(1206)11月26日条⑪頼仁親王 『四黄記』建保3年(1215)4月25日条Ⅱと同様、殿上童ではないため直衣指貫は選ばれたと思われるが、ここでは元服後の装いが直衣指貫と、これまでと異なる。『江家次第』の記述には元服後叙爵しない者は直衣を着るとあったが、3例はそれに当てはまらない。特に⑩では、Ⅱでみられた摂関家の家例である叙爵と禁色宣旨が『猪隈関白記』に記録されるが、元服後は位袍束帯ではない。さらに⑪では、親王さえも元服前後に直衣を用いるようになることが窺われる。これらを考えるうえで、⑨⑩で天皇から賜った冠と直衣を大人の装いに用いていることが注目されるのではないだろうか。ところで、これらより前に、天皇より賜った直衣を大人の装束として着たと思われる元服例を指摘できる。『中右記』長承2年(1133)7月16日条には藤原宗周の元服について、  冠者年十四、元五位、名宗周、令着直衣装束、御冠御直衣密々申内也、於簀子敷二拝、〈不改装束、不持笏、依□□□□、〉…万事省略儀也、仍強不招賓客也、とあり、「万事省略儀」のためか装束改めをせず、天皇からの直衣で元服を行ったと思われる。これに似通った事例が保元元年(1156)8月29日の藤原基房の元服で、事如常、不召童装束、一度着元服装束出御也、〉…  今夕可有若君元服、…次若君着給奥座、〈殿下御直衣、蘇芳生衣、織物指貫、他(『兵範記』)とあり、童装束を着ず元服装束である藤原忠通の直衣を着て、この後理髪・加冠を行

元のページ  ../index.html#261

このブックを見る