3 小葵文の童直衣をめぐって元服事例の中には、12世紀後半から具体的な直衣装束が記録されたものも散見す 次若君〈主上御直衣也、此外装束私儲之、紫亀甲織物奴袴、濃打衣、裏濃蘇芳褂二領、濃単衣、濃下袴、泥絵扇、不結髪、〉 〈・・・若君装束〔直衣〕(如例綾丸文也、)二重織物、紫指貫、裏濃蘇芳、衣三領、― 252 ―っている。⑨にはこの基房元服例を意識した記述が見て取れる。また、『兵範記』久寿元年(1154)2月11日条にみえる平信範息、祇王・徳王の元服では、理髪・加冠前に祇王が童装束から天皇より賜った直衣・指貫を含む「直衣、紫織物指貫、濃打衣、蘇芳衣二、青□濃合袴、直衣指貫」という装束に着替えている。手順が異なるため正式な装束改めとはいえず、賜った直衣を大人の装いとして身に付けて臨んだ元服だと考えられる。平安末期には、宗周の元服のように客を招かずに内々に行なったり、飲食や禄、冠者の拝舞がなかったりなど、元服式の簡略化が多くみられるようになる。そうした背景から儀式での装束改めも省かれたのか、賜った直衣を省略可能な童の装いではなく、大人の装いとして着るように移り変わっていったのではないかと推測してみたが、今後さらに十分な検討が必要と思われる。以上より、平安時代において童直衣を用いた元服での装束改めは、大きく3通りにわけられる。それぞれの装束が選ばれた背景については各項にて述べたとおりであるが、そのほかに童の直衣布袴姿が確認できない、殿上童が直衣を用いる、元服後叙爵しても直衣指貫を着用するなど、『江家次第』の記述にはおさまらない実情を見出すことができた。また、童の装いの直衣束帯が直衣指貫へと、そして賜った直衣を着用するのが童姿から元服後へと移行する様子が窺われた。る。前出の事例以外のものを挙げると、以下のようになる。・春宮亮息 『兵範記』保元2年(1157)11月11日条 〈若君有文直衣、紫指貫、是春宮御衣等歟、濃打衣、蘇芳衵、青単衣等着之、差劒、〉・藤原長房 『山槐記』治承3年(1179)正月10日条・藤原忠良 『玉葉』治承4年(1180)2月11日条青単衣、〉などがあり、直衣に織物の紫指貫や濃打衣、蘇芳衣、青単などが合わせられた装いであったことがわかる。また、直衣に有文、丸文などと文様があったことが窺われるが、■単歟■
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