― 253 ―前述した⑩藤原基教の元服に「小葵織物直衣、二倍織物御指貫、裏濃蘇芳御衣三、濃下袴」(『不知記』)とみえる小葵文に着目して童の直衣姿を考えたい。これと近い時期の建久6年(1195)3月29日に元服した惟明親王の童直衣が「織物直衣〈小葵文、〉裏濃蘇芳、御衣二領青単、紫織物奴袴〈亀甲文、〉紅張下袴」(『胡曹抄』)とあり、袴着においても皇太子の白の小葵文浮文織物という童直衣がみられるなど(注11)、複数の事例を指摘できるのである。小葵文は、有職文様のひとつで、唐花を中心に据え蔓唐草で周りを囲んだ連続的な総文様である〔図1〕。「白小葵地鳳凰文二重織物袿」(鶴岡八幡宮蔵・鎌倉時代)をはじめ、熊野速玉大社蔵の唐衣・裳、衵類(室町時代)、「萌黄小葵地桐竹鳳凰文二重織表着」(熱田神宮蔵・室町時代)など、神宝服飾類に地の織文様としてみられ、貴重な作例を伝えている。また、阿須賀神社伝来の「白小葵文固綾袍」(京都国立博物館蔵・室町時代)は、身丈が異様に長いため引直衣のようだともいわれるが、小葵文は天皇の引直衣の文様としても知られている。『禁秘抄』『三條家装束抄』など故実書の記述以外にも、「天皇摂関大臣影」(宮内庁書陵部蔵・南北朝時代)に描かれた二条院や四条院、「後醍醐天皇像」(大徳寺蔵・南北朝時代)に代表される引直衣姿にも小葵文が確認される。近世には後水尾天皇御料の「白小葵文様綾引直衣」(円通寺蔵・江戸時代)などの実作例も存する。これらの作例から、小葵文は天皇に関係の深い特殊な文様といえる。その一方で小葵文は、『三條家装束抄』「一直衣事」に「童体の人面白浮織物。文小葵重文■。裏同前。〈紫。〉」、『桃花蘂葉』にも「直衣 童体の時は、白浮織物直衣、〈文小葵、〉裏濃紫也」とあるように、中世では童の直衣の文様ともされた。『山槐記』治承4年(1180)2月5日条には、翌月譲位する高倉院に新帝安徳が御幸する際の直衣の文様を問答する内容がみられ、平安末期における小葵文について重要な記述が認められる。まず小葵文は童親王の直衣の文様であることが読み取れる。『胡曹抄』には天皇、皇太子、親王の冬直衣の文様を「小葵」とするが、皇太子と親王には童の時に限定する記述が伴うことも留意したい。次に、小葵文は禁色を聴された禁色人も用いることができる「下物」であるという。天皇のほか公卿の半臂、下襲、衵などにはしばしば小葵文が見受けられるが、それは公卿が禁色人に当たるからであろう。しかし、直衣 御直衣文未詳、無左右可用浮線綾丸歟、猶小葵如何、童親王直衣制如此、又被聴禁色之人或又用彼文、即下物之由云々、先朝令用此文給之條、勿論之最歟、(注12)
元のページ ../index.html#263