注⑴中村義雄『〈塙選書22〉王朝の風俗と文学』塙書房、1962年、106〜109頁⑵『水左記』承保2年(1075)8月16日条、『帥記』承暦4年(1080)7月5日条⑶管見での初見は、『殿暦』康和5年(1103)11月24日条である。ほぼ同時期に成立した『江家― 254 ―のような表衣と大部分が覆われる半臂、下襲、衵など下衣類の位置付けは大きく異なると考えられ、小葵文直衣を公卿が着用することは稀であったと思われる。以上より、天皇を想起させる小葵文の直衣を身にまとう童たちの姿は特別であり、特に臣下である基教にそれが着用されているのは特筆される。筆者は以前、平安末期に童束帯の赤色袍に小葵文がみられることを指摘したが(注13)、小葵文は童の表衣の特質といえるのではないだろうか。その背景には、先述した元服にて天皇から賜る直衣が関わっている可能性があると考える。有栖川宮家に伝来し、現在京都国立博物館蔵の「白地小葵文様浮織物童直衣」〔図2〕は後水尾天皇料と知られ、小葵文様を若年の料にふさわしく小柄に織り出した白の浮織物の童直衣の実作例である。これは、慶安4年(1651)11月25日に加冠した有栖川宮家第二代良仁親王が後水尾天皇の第七皇子であることから、同じく御料「紫地亀甲浮線綾文様二陪織物指貫」〔図3〕とともに拝領した品と考えられている(注14)。天皇の童直衣を賜って元服時に用いたとされる実例であり、小葵文が童の直衣の文様であることへの理解の一助となるのではないだろうか。おわりに以上に述べてきたように、袴着では下袴に引直衣という独特の装いが、元服では天皇から賜った直衣を着た姿や、限られた者にしか聴されない小葵文の直衣姿が認められ、童の直衣姿には天皇の存在を感じさせる特質が見出せることを指摘した。また、元服には3通りの装束改めがあり、それらの装束が時代を経て次第に変化していく変遷と背景についても言及した。その中で触れた天皇より下賜された直衣を用いるのが童の装いから大人の装いへと変化したことについては、それぞれの装いが元服式においてもつ意味合いを考えるにあたって興味深い結果が得られた。変化した経緯とともに、今後の課題として検討していきたい。次第』「石清水臨時祭試楽」にもみられる。⑷『兵範記』久寿3年(1156)3月5日条に「女御昇給夜御殿、東宮着御引直衣御云々」とあり、皇太子の着用が指摘されている。(河鰭実英「御引直衣の研究」『学苑』160号、1954年、89〜94頁)また、「源氏物語絵巻」鈴虫巻には冷泉院の引直衣姿が描かれている。
元のページ ../index.html#264