― 260 ―外の樹木でもこのような表現がみられる。さらに、場面転換で画面を覆う霞の合間に松や楓を配した際、その根元の部分が画面下部の霞によって隠され、画面上部の霞よりも手前に葉叢や枝、幹が配される箇所がある〔図5〕。これは「釈迦堂縁起絵巻」第五巻第四段の場面転換に現れる松と梅に見られるもので〔図6〕、本絵巻が人物だけではなく、細部にわたって狩野派絵巻の表現様式の範疇にあることをうかがわせる。土坡や岩の表現は、元信個人様式の絵巻に比べラフな印象である。太くはっきりとした輪郭線を基調に薄く顔料を塗り重ね、点苔を添える表現は、「北野天神縁起絵巻」のそれと通じあう。点苔は、岩表面の質感再現を目指すというよりもむしろ、装飾的効果が前面に出ており、ある種のパターン化が見て取れる。霞は、下書きした上に白群を塗り、さらにその上から白線で輪郭なぞるもので、元信個人様式の絵巻に準じる。しかしながら、料紙の天地に近い部分は塗り残されて素地があらわれている。本絵巻の霞は、主にフレーミングによる対象の焦点化と場面転換に用いられている。構図についてみると、室内場面では吹抜屋台で斜線構図によるものが多く、屋外場面では水平方向になる傾向がある。但し、屋外であっても下巻第7段では、ジグザグに斜線を交差させるような建物の配置を取る。画中画では、下巻第三段の暹俊が夢告を受ける場面に、行体の水墨山水を描く襖があり、金泥を掃く。近景・中景・遠景を意識した構図は巧みで、絵師が水墨画に長けていることをうかがわせる。次は詞書である。上巻第一段と第二段を清書した伏見宮貞敦親王(1486−1572)は、伏見宮邦高親王の第一皇子として生まれ、伏見宮第六代となった。天文13年(1544)に落飾、法名は澄空。貞敦親王の書は、例えば、「貞」では第二画目が第三画とつながり、第四画のとめの部分でやや左へ跳ね上げ、第七画と第八画がつながる書癖〔図7〕があり、「目」の第三画と第四画は、第二画と接することなく、少し手前でとめる。一部の字ではあるが二尊院縁起絵巻と短冊類の間で共通項が確認される(注8)。三条西公条(1487−1563)は、三条西実隆の子で、右大臣、正二位まで上った。天文13年(1544)に出家、法名は仍覚。公条は享禄本「当麻寺縁起絵巻」に父や兄の公順(東大寺西室院主)と共に染筆している。本絵巻上巻第三段から下巻第八段までの詞書と残された短冊などの筆蹟類とを比較すると、いくつかの特徴が抽出される(注9)。「也」は、最後のはねの部分をはね上げず、そのまま右へ流す。これは、そのほかの字にも当てはまり、「九」の最終画のはねや之繞の払いなどにも見られる。「尊」
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