鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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3 「二尊院縁起絵巻」の内容構成続いて、本絵巻の内容構成について特筆される事項を三点挙げたい。第一点として、二尊院の歴代住持を時間軸に据えて絵巻が構成されていること。第二点として寺宝や寺の境内にまつわる逸話が多く占めること(上2・3・4、上6、下1−4、下6)。第三点として天皇をはじめ、将軍や貴顕による帰依が説かれ(上1、下5)、特に、称名院、青蓮華院(三条西家、正親町三条家)の名を挙げることである。― 261 ―は、最後の点を右上から左下方向へ筆の腹を使って点ずる〔図8〕。「御」は、最終画の下にのびる線が長くなる。上述のような字形の一致、あるいは用筆の共通性から、本絵巻の上巻第三段から下巻第八段までは公条の手になると判断される。同じく外題についても堂々たる運筆や字形から後奈良天皇(1496−1557)によるものと推定される。これらの内容は、本絵巻の内容起草にあたり、二尊院の寺格の高さを語ることや、寺宝や境内にある様々な場所の由来の提示、重要な檀那である三条西家への配慮を意図していることが分かる。特に、寺宝にまつわる段では、法然との関係性を意識している。また、下巻第1段から第4段まで占める皇慶阿闍梨の袈裟をめぐる逸話は、皇慶の伝記である大江匡房『谷阿闍梨伝』(1107年)に見えるほか、特に『発心集』や『私聚百因縁集』に収められる「僧相真没後返袈裟事」と本絵巻の内容はほぼ同じであることは注目されよう。この逸話は、皇慶が護法(護法童子)に天竺の無熱池で洗わせた五条の袈裟を、暹俊が所持していたが、これを相承した弟子の相真が師の暹俊より先に没したため、暹俊が取り戻そうとしたところ、すでに相真とともに埋められてしまった。それを暹俊は嘆いていたが、夢に相真が現れ、この袈裟の功徳によって都率天に生まれ変わることが出来たといい、袈裟を返したという内容である。『発心集』や『私聚百因縁集』では、相真は没後、師匠の暹俊から譲り受けた(皇慶由来の)五条の袈裟と共に埋葬されたとするのだが、絵巻の詞書では、相真の棺の中に袈裟を納めて火葬したと記され、さらには、返された袈裟の端が焼けていたと述べている。これに対応すべく、画面にも火葬の様子が描かれる。なぜ火葬の様子をわざわざテキストと絵で表したのかについては不明であるが、伏見院より下賜され、土御門院の叡覧を賜ったという由緒ある袈裟の由来は二尊院にとって重要であったと考えられる。二尊院は、天文元年(1532)と天文4年(1535)の二度にわたり、香衣が許されていることなどもこの逸話が選択された理由の一つかもしれない(注10)。さらに寺の境内にまつわる逸話では、歴代住持の徳によって霊験が起こるという構

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