― 263 ―おきたい。第三点の公条像についてはすでに山本英男氏が指摘されているが、改めて両者を確認してみると、絵巻の公条像〔図10〕と二尊院に所蔵される「三条西公条像」(重要文化財、絹本著色)〔図11〕は、面貌表現に共通項が多数見出せる。瘤のように突き出た頭頂部をはじめ、額の皺、下から上へ一本一本線を重ね、眉尻が近づくに従って下がり気味に描かれる眉、眉と上瞼との間や下瞼の下に代赭で数本の線を引き、目の窪みを表すところ、まぶたが弓なりに弧を描くようにかたどられ、三角のような形をとる目、鼻梁の形、小鼻から伸びるほうれい線、左右の頬骨が張り、そこからまっすぐ顎まで輪郭線を伸ばして、こけた頬に表すところなど、数センチの大きさに描かれた絵巻の公条像と数十センチの大きな絹本に描かれたそれは、メディアの違いを乗り越えて、ほぼ同様に表されている。絵巻に描かれた人物は、公条とみて間違いない。第四点の、特に巻末部分の米俵を運ぶ男性たち〔図12〕が描かれた理由については不明である。このような米を運搬する場面は、出光美術館蔵「月次風俗図扇面」の「米屋図」をはじめ、上杉本「洛中洛外図」など、当世風俗を描く作例に散見される(注17)。この場面については、初期狩野派における図像ストックの問題に加え、二尊院と米屋との関係も含め今後引き続き検討していきたい。おわりに本報告では、「二尊院縁起絵巻」を中心に、調査を通じて得られた知見を元に、画風や書風の検討、画面の特質や内容構成について注目される点を挙げ、若干の考察を試みた。最後に制作年代について述べたい。これまで本絵巻の制作年代については、下巻第8段の詞書により、天文10年(1541)と想定されてきた。しかしながら、天文13年(1544)の公条落飾に注目した山本氏は、本絵巻の制作時期を天文13年以降とする(注18)。前述したように、絵巻に描かれた公条と「三条西公条像」との面貌表現の近似が再確認されたことや、公条による勧進帳や願文の存在などから、筆者も山本氏の意見に賛同する。しかしながら、公条の関与を加味した上でもなお疑問なのが、下巻第8段の存在である。天正2年(1574)に九条稙通によって編まれた『嵯峨記』には、「逍遥院入道内府相府の芳志を励し給ふ事不可勝計。しかあれど穏しからざる世のうつりにて。一院造隆もことゆかで。いたづらに星霜もふりけるに。良純論師の比心をつくし侍りて。仏殿方丈房舎に至るまで。きらきらしくならべ給ふ」とある(注19)。つまり、二尊院は、応仁の乱後すぐに寺観が整えられたのではなく、第17世良純(本源上人)に至って復興が完了したと考えられる。本絵巻制作の契機について
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