鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 269 ―㉕ 内畠暁園について―近代京都画壇から見た画業―研 究 者:関西学院大学 非常勤講師  上 田   文内畠暁園(1874−1917)は京都の竹内栖鳳門下で明治30年代に活躍した広島県出身の日本画家である。しかし現在、京都においてその名を見出すことができるのは、明治36年(1903)に洋画家浅井忠の洋画研究所に入ろうとしたことと(注1)、栖鳳門下数名で結成した「水曜会」の幹事として活躍したこと(注2)、の二点だけである。これまでの調査で、京都で確認できた作品は、紅蓮に人物を描いた「周茂叔図」〔図1〕一点である。明治40年頃に病気のため郷里へ帰った内畠暁園の名前も作品も、京都では全く見出せないのが現状である。一方、暁園の郷里である黒瀬町(現東広島市黒瀬町)では、帰郷後に(注3)描いた西福寺の襖絵「孔雀と芭蕉の図」「玄奘西域行の図」が同町の重要文化財に指定されている。暁園は大正6年に42歳で歿しているが、地元では遺作展が開催され、作品集が出されるなど先学による顕彰が進んでいる(注4)。現在、黒瀬町を中心に襖絵、屏風、衝立、額、扁額、掛軸、小額、袱紗など50点余りが確認できる。また近年、暁園が栖鳳に入門する前に師事していた土佐出身の画人河田小龍の日記が明らかになり、弟子であった暁園の動向も判明してきた(注5)。内畠暁園の生涯と画業および主要な作品については先学の顕彰にゆずり(注4)、本調査研究では、これまで全く光の当てられなかった内畠暁園の京都での活動を明らかにし、さらに、なぜ京都の画壇で忘れられてしまったのか考察することを目的としたい。内畠暁園は、明治27年(1894)4月に広島市内滞在中の河田小龍に入門した(注5)。小龍は、ジョン万次郎の漂流記『漂巽紀略』の著者として、また坂本龍馬に海援隊のヒントを与えた人物として幕末の歴史に名を残しているが、明治31年に没するまで南北合派の画人として活躍した(注6)。暁園は、京都に移住した河田小龍を頼って上洛した (注7)。当時、小龍に手ほどきをうけた暁園の作品が郷里に残されている〔図2〕。左端の菊図は、「明治丙申夏日写于平安 暁園」(明治29年)の年記があり、植物図譜のような精緻な表現である。その他の孔雀、人物いずれも鮮やかな絵の具を用いた美しい着色である。中でも芭蕉前の床几に座る唐美人の図は、小龍にも同じ作品があり〔図3〕、この時期の暁園の画技の習得が臨模であったことを証明し

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