鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 270 ―ている。両作品はほぼ同寸で、芭蕉と太湖石の書き込みや彩色は少々異なるが、落款を除けば区別できないほどの同質性を示している。粉本の存在はもちろん小龍の補助もあったと思われるが、この二作からは、暁園が摸写によって様々な筆技を写し取る技量に驚くほど長けていたことが窺われる。明治31年7月に暁園は、小龍が75歳になり大病を得たため24歳で竹内栖鳳に入門する。暁園は栖鳳について「先生は画学校の教員にて京都にても若き内にて第一の評判のよき人にて東京辺にても餘程評判よく先日本にてもあまり數なき人也 門人唯今通学致有候も三十人位にて実にやかましく候」と書いている(注8)。暁園入門の頃には、栖鳳は35歳で若手の評判画家として頭角を現し、塾にはすでに弟子30人余りを擁していた。栖鳳塾入門後の暁園の活動に注目すると、京都岡崎で毎年開催されていた「新古美術品展」や東京で岡倉天心たちが開催していた「日本絵画協会日本美術院連合絵画共進会」などに出品している。また明治36年3月の第5回内国勧業博覧会にも出品、11月には「水曜会」という研究団体を結成し、展覧会を開催している(注9)。これら京都での暁園の活動を示す作品をまとめたのが〔表1〕である(注10)。明治33年以降の作品の大半は、現在所在不明であるが、雑誌などに図版が掲載されており、図様を知ることができる。それらは、中国故事や仏典、神話などに材をとった人物画であった〔図4、5〕。現在作品が確認できるのは、明治37年第9回新古美術品展に出品された四曲屏風「易水」〔図6〕で、広島県の呉市広市民センターに保管されている(注11)。落款に「明治三十七歳春日寫于華頂山下艸堂/暁園内畠穫 白文方印(耕穫) 朱文方印(暁園)」とある。「華頂山下艸堂」は、暁園の住んでいた京都知恩院山内の通照院のことで、「穫」は本名穫造の一字である。「易水」は、中国の春秋時代の故事、荊軻が燕丹のために秦の始皇を討とうとして易水のほとりで別れる場面を描く。画面左の剣をさげた人物が荊軻であろう。右側に見送る四人の人物、天蓋と琴を持つ二人の童子がいる。画面に対して人物は大きく、それぞれの顔を描き分けている。唐服が風になびく様を、たおやかな線で表し、着色は白を基調に明るい青、緑、朱で細部まで丁寧に描いている。肩にかけた薄絹を透明感のある胡粉で描いているのは、明治30年代の日本画特有の表現であろう。線描や彩色は丁寧で美しいが、やや一本調子で画面に変化が見られない恨みはある。当時の評は以下のようであった。「説色は思ひ切つて華麗にするか、さなくば圖題相應、悲壮な色彩を用うべきであ

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