鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 271 ―るが、此の圖は全体の色に於て何方も附かずになつて居る、其の上主人公荊軻の表情が巧みに現れて居ない上、添えた人物の表情も易水の情を活動させて居ない」(注12)彩色が中途半端なこと、人物の表情が生きていないことが指摘されている。確かに人物の表情は硬いが、端正で、それぞれの顔を肌色と胡粉で立体的に描いており、洋画の影響を思わせる。明るい着彩も含め、当時としては新しい試みだったのではないだろうか。当時の栖鳳門下の写真が残っている〔図7〕。暁園の紹介で栖鳳に入門した石崎光瑤は、当時塾長であった暁園の風貌を「初對面の曉園君は、端然として風姿が、哲學者か何かのやうに、私には氣高く見えました」と述べ、「曉園君が夭折せず、今日までも生きてゐたなら、慥かに京都畫壇の一異彩となつて、大なる光澤を放つてゐるでせう」と語っている(注13)。暁園が第5回内国勧業博覧会に出品した「絶望之曉」〔図8〕は「悉多太子出家シテ遁レントス」場面を描いたものだが(注14)、注意をひくのは縦7尺8寸、横4尺8寸という大画面であったことである(注15)。大画面での大人物図という新しい日本画に挑戦していたことが窺われ、第3回美術研精会展覧会に出品した「誰家巧為斷腸聲」〔図5〕についても「大きさに於て場中第一である。さして面白味はないが、これ丈の大畫幅を見てゐらるゝ程に書いた技倆は多しとするに足る」と評されている(注16)。大画面については批判もあった。「内畠暁園氏の『奈良朝に於ける佛教の感化』は美人数人、薬草を携へたる圖にして大幅也。(中略)然れども滿幅の配置筆力に未だしき所あり。己の力を測らずして好んで大幅を描く滔々たる時流を趁ふなからん事を望む」(注17) 。むやみに大画面を追う傾向を誡めた評である。しかし暁園にとっては大画面に大人物図を描くことが最大のねらいであったと思われ、人体を把握することが必要であったに違いない。最初にも述べたが、暁園が浅井忠の洋画研究所で学びたい希望を持っていたのは、自分の制作に人体デッサンの必要性を感じていたためだと思われる。結局、浅井に入門はせず、明治36年11月には栖鳳門下の五、六名で「水曜会」を結成している。水曜会は明治36年から明治40年まで年一回塾外で展覧会を開催し、展覧会図録『水曜会画集』の発行や機関誌『黎明』を定期刊行するなど、後の国画創作協会に繋がる活動としてその重要性が指摘されている(注18)。『黎明』にはミケランジェロの「ノア洪水後神を祭る図」やボッチチェリ「羅馬バチカン宮殿カペラシスチナ」など泰西名画の図版が掲載されている(注19)。明治33■■■

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