鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 272 ―年に渡欧した栖鳳の画塾では、図書室にヨーロッパの美術図書が揃えられ、徳永鶴泉が西洋画論講義を行うなど(注20)、西洋美術について学ぶ機会に恵まれていた。暁園は「今より五百年程も前に死んだ伊太利亜の画僧にて羅馬府に其描きし画あるのを一度見て学びたき覚悟なのです」と認めており(注21)、西洋美術に強く憧れていた。大作の大人物図を意図した動機は、この辺りにあったと考えられる。一方で、暁園は、写生をもとにして「つけたて」の技法で身近な題材を描いた作品も残している。栖鳳の得意とした「つけたて」の筆法を体得することは、暁園にとってそれ程難しいことではなかったと思われる。暁園の「胡瓜に雀図」〔図9〕では、胡瓜の葉や蔓を、柔らかみのある中に切れ味のある濃淡の「つけたて」で見事に描いている。二羽の雀も、栖鳳の得意とした筆遣いそのままである。けれども暁園の展覧会出品作は、すでに見たように、いずれも中国故事や仏典、神話に材をとった人物画で、水曜会の展覧会にも大作を発表している。暁園は漢詩に自分の思いを託すような教養の持ち主であり(注22)、栖鳳塾に移った後も「南画の若手畫家」とされていた(注23)。自らも「暁園其者は、唐人物と云へば、暁園を聯想する丈け、多く好んで唐土の風俗を描く、為に之れに關する研究は、云ふ迄もなく、參考も手の及ぶ限り蒐集しつゝあれば、調査至難なる彼の地の事柄も、(中略)一々其據て來る所あるべし、何ぞ大なる誤謬あらんや」(注24)と自信の程を述べている。また暁園は故実と絵画について次のように語っている。「故實は歴史的人物を描く上に於て將亦其時代を表はすには必要である事は當然なるが之に拘泥するには及ぶまい(中略)夫れよりも其意味が肝要な者である」(注25)暁園が大切にしたのは、作品の示す意味であった。つまり、暁園にとって絵画は歴史や文学と切ってもきれない繋がりをもっていた。その証拠に、明治37年の美術研精会展に出品した「誰家巧為斷腸聲」〔図5〕や明治38年の水曜会第3回展覧会の「侠妓李氏」(「妾の罪」)では、暁園の説明が附されていた(注26)。そうした暁園の制作態度を考えると、帰郷後黒瀬町に残した絵画にも意味があったのではないだろうか。西福寺の襖絵「孔雀と芭蕉の図」「玄奘西域行の図」は、本堂内陣むかって右面に玄奘が描かれ、内陣前の全面に孔雀と芭蕉が描かれるが、これは仏典を求めて西へ旅する玄奘がクジャクのいるインドに向かっている、という空間的な構想をもって描かれたと解釈できるだろう。黒瀬町に残された作品には、粉本による制作を思わせるものが散見される。小龍の弟子であったことにも因るだろうが、暁園の制作には粉本が切り離せなかったと思われる。粉本というものは、暁園が大切にしたような、絵画の意味を支えるシステムと

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