― 273 ―して機能してきたのだろう。近代以降、粉本制作は独自性のないもの、「剽窃」として忌み嫌われているが、そうした近代の制作は必然的に歴史や文学の物語性を削ぎ落とし、絵画の自律性を求めてゆく。竹内栖鳳が求めたのは、そうした近代性、つまり視覚によって成り立つ作品であった。栖鳳は俳句や浄瑠璃、歌舞伎を趣味とし写生を重視したように、漢詩や仏典などの故実の教養よりも、身近な実感のあるものを好み、絵画制作においても感興を第一にしていた(注27)。漢学の教養に長じ、絵画に意味を持たせることを大切にした制作理念を持ち続けた暁園の制作は、近代京都画壇を先導した栖鳳の方向と相容れないものであったといえるだろう。最後にもう一点、広島県立美術館所蔵の暁園作「異国人物図」(原題不詳)〔図10〕について考えておきたい。「異国人物図」は、中央やや左に白い羽根飾りの冠をかぶり、薄絹の肩掛けの裾を持たせた童子と花皿を持った童子を連れた高貴な人物と、それに向かい合う剣を下げた若者を描いている。この二人の人物は「易水」とほぼ同じポーズであるが、鼻筋の通った顔や服装がインドを思わせる。顔の表情は穏やかで気品があり、足下には多くの花が撒かれている。朱と緑の対比が美しい彩色で、白のハイライトによって明るい陰影をつけ立体感を出している。背景の柱や獅子の彫刻は異国を思わせ、ターバンを巻いた7人のインド風の人物が、色の調子を一段抑えて描かれる。この作品の描線と着彩は、どこをとっても破綻がなく丁寧で美しいが、全体として変化に乏しく硬さが感じられる。肩掛けの裾を持つ童子と花皿を持つ童子を連れる高貴な人物と、対面する若者、足下に撒かれた花などの図様から考えると、これは横山大観が明治36年日本絵画協会第15回共進会に出品した「釋迦父に逢ふ」(注28)を参考にしたのではないだろうか。「釋迦父に逢ふ」は、大観が岡倉天心の勧めでインドに渡り、帰国してから約20日で描きあげたもので、大きさは縦6尺6寸、横3尺8寸の大作であったという(注29)。「異国人物図」には朱文方印(暁園)が捺されているだけで款記はない。本図が出品を意図した大画面であることは明らかだが、今回の調査による出品歴の中に該当すると思われる作品は見当たらなかった。そこで、この作品は明治40年の文展開催を視野に入れた水曜会第5回展覧会のために描いたものではないか(注30)、と推測しておきたい。結局、明治40年には水曜会に出品することもなく、暁園は郷里に帰ったのだろう。内畠暁園の京都における活動に焦点をあてて調査を行うことにより、今まで全く知
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