注⑴徳美大容堂「栖鳳畫伯の言葉から(八)―竹杖會の門弟諸相―」『美の国』第11巻第11号、昭和10年11月。― 274 ―られていなかった画業が明らかとなり、大画面における大人物図を目指していたことが判明した。明治30年代後半から「日本画の将来」が盛んに論議され(注31)、日本画においても西洋画のような人物中心の大画面が模索され始めた時期に、暁園がそうした新しさを積極的に追求した、と考えてよいだろう。その中で、暁園が絵画において最も重視したのは作品の意味であった。展覧会出品画の画題として中国故事や仏典など歴史や文学とつながりをもつテーマを好んで描いたのは、西洋の歴史画に倣ったのかもしれない。栖鳳入門後の暁園は、西洋美術に憧れて人体を描こうとしたと考えられる。明治30年代の暁園の作品は京都画壇における新しい人物画探求の先駆といえるのだろうか。しかし、暁園には粉本による制作から脱却しきれない部分があった。これは栖鳳のめざした方向とは相容れない。また京都においては大画面の歴史人物画が必要とされなかった面もあるだろう。結局、こうしたことが京都画壇から忘れ去られてしまう要因になったのではないか。明治40年を境に「近代」を乗りこえられなかった内畠暁園の画業は、京都画壇の近代性の一側面を照らすものでもある。暁園は今、黒瀬町楢原字宮前の墓所〔図11〕に眠っている。⑵神崎憲一『京都に於ける日本畫史』京都精版印刷社、昭和4年9月、144頁。⑶『明治四十三年度 日本美術年鑑』第1号(畫報社)には、「現住所廣島縣賀茂郡中黒瀬村」とある(195頁)。⑷「暁園画伯の顕彰会が開かれる」(『黒瀬だより』第141号、昭和57年4月)、『内畠暁園遺作展(図録)』(東広島市立美術館 昭和57年6月)、『内畠暁園作品集』(黒瀬町教育委員会 昭和60年9月)、菅村亨「内畠暁園」(『美術ひろしま2001』2001年3月)など。⑸拙稿「河田小龍について―明治21年から明治31年の日記をめぐって―」『高知県立美術館研究紀要』第6集、2005年3月、19−20頁(なお、拙稿では内畠暁園の苗字が「内畑」となっているが「内畠」が正しい)。⑹鍵岡正謹「河田小龍 人と作品」『河田小龍 幕末土佐のハイカラ画人展(図録)』高知県立美術館、2003年11月。⑺河田小龍日記によれば、暁園は明治29年5月31日に上洛、明治30年7月13日から病気療養のため広島へ帰郷、同年10月26日に再び上洛している。⑻向臺音吉宛書簡、明治31年7月。以下、引用は原文のままとした。⑼注⑶、328頁。⑽『新古美術品展目録』、『京都美術協會雑誌』、『新畫苑』、『黎明』、『日本美術』、『研精畫誌』、『第
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